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箱根の首討事件~大名同士の争い

 四代将軍家綱の時代の寛文年間、江戸で大久保忠朝家臣の小者が主人を殺し、塀を越えて隣の青山幸利の屋敷に逃げ込みました。

 すぐに大久保家から青山家に、逃亡した小者を引き渡してもらいたいとの使者が出されましたが、青山家は「そのような者は来ていない」と求めに応じなかったのです。

 これは、先年に青山家の家臣が同輩を討って大久保家の屋敷に逃げ込んだのを匿って出さなかったことがあり、その意趣返しでした。

 大久保家としてはこれは主殺しであるので引き下がるわけにはいかないと、公儀の掟を持ち出して引き渡すよう申し入れますが、青山家の返答は変わりません。

 大久保家としてはどうすることもできず手をこまねいていましたが、しばらくした寛文6年(1666)、丹後宮津の京極高国が改易された際、青山幸利が城受取役を命じられます。

 それを知った大久保忠朝は近習の岡島新兵衛に、青山家の行列を監視し、もし逃げ込んだ小者が居たならば討ち果たすよう命じたのです。

 岡島は早速足軽数名を引き連れて出立し、箱根で青山家の行列を待ち構えます。

 そして、茶屋で行列を監視していると、馬の口取りをしている例の小者を見つけたのです。

 岡島は足軽たちに対し、
「自分があの小者を討つので、そなたたちは周りの者達に邪魔されないよう支えてくれ」
と指示し、そのまま行列に向かって行き、小者に一声かけると、一刀のもとに斬り倒し首を取ったのでした。

 そして岡島たちはすぐにその場を立ち去り、畑の中の茶屋に引き籠りました。

 青山家側は、三島まで先を進んでいた本陣にすぐに報告がなされます。

 青山幸利は、首を取った侍がそのまま茶屋に立て籠もっていると聞くと、茶屋に使者を出し、

「当家の行列の小者の首を取り持ち去るとは如何なることか。直ちに本陣まで来るように」

と伝えさせました。

 岡島は元よりその覚悟であったため、申し出を承諾して出立の準備をしますが、足軽たちに対し、

「私が斬られるのは間違いないので切死にする覚悟である。そのときは従者を一人で帰すので、討ち取った小者の首を持って江戸へ戻れ。

 従者が帰らず青山家の者達が来たならば、その方たちも討ち取るつもりであろうから、首を持ち帰る役を一人決めて、その他の者はその者を逃がすよう立ち向かえ」

と指示して青山本陣に向け出立したのでした。

 青山本陣では岡島が来るのを待ち構えていたのですが、供頭であった朝比奈藤兵衛が幸利に対し、

「今日の出来事はあくまでも私事です。城受け取りは公事であり、私事のために公事を遅延させることはできません。

 一人を討ち取ることは難しくありませんが、必死になって立ち向かってくるならばこちらにも怪我人が出るでしょう。

 怪我人は連れていけないので江戸に帰さざるをえず、風聞も立ってしまいます。

 斬り込んできた者はあくまでも主命に従ったものであり、しかも命懸けで大勢の中に飛び込んで使命を果たしています。

 かえって賞賛してやった方が、当家の武名も立つでしょう。」

と申し立てたのです。

 それを聞いた幸利は、もっともなことだと納得し、再び使者を立て、

「本陣まで来るように伝えたが、御用途中であるのでもう出立する。その方が主命とはいえ命を懸けて大勢の中に斬り込んで目的を達したことは賞賛に値する」

と伝えさせ、三島を出立したのでした。

 そうして岡島は無事に江戸に戻って主君に使命達成を報告することができたのです。

 なお、この時当座の褒美として脇差を与えられたのですが、そのまま加禄の沙汰が無かったので、岡島はそれを不服として大久保家を辞して浪人となってしまい、事件のときに箱根を領していてこの一件を耳にしていた小田原藩主の稲葉正則から召し抱えられたそうです。(明良洪範)