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八丈島での宇喜多秀家と子孫

 宇喜多秀家は豊臣秀吉から重用され備前・備中・美作の57万石を領し、徳川家康や前田利家らと共に豊臣家の五大老の1人として活躍しましたが、関ヶ原の戦いに敗れて若くして八丈島に島流しとなり生涯を島で過ごした男です。

 幼少の時に父宇喜多直家が死にましたが、その縁で秀吉の養子になったことで運が開け、若年ながらも五大老となり栄華を極めました。

 しかし関ヶ原の戦いで西軍に付き敗れ、一時は鹿児島まで逃亡し島津家に匿われましたが結局島津家でも庇いきれずに幕府に捕らえられてしまいます。

 妻豪姫の実家である前田家のとりなしで死罪は免れたものの、3年間の駿河での幽閉後、1606年に八丈島に島流しとなりました。

八丈島での生活

 秀家一行は、息子2人と家臣、下女ら十数名だったそうですが、当時の八丈島は「鳥も通わぬ」といわれたほどの地であり、そこでの暮らしは困難を極めたようです。秀家らが、八丈島への最初の島流しといわれています。

 ある時、福島正則の家臣が船で米を広島から江戸に運ぶ途中、暴風に遭い八丈島に辿り着きました。八丈島だと知り秀家と面会を求めると、薄汚れた格好の秀家が来たそうです。格好はともかく立ち振る舞いには気品があったそうで、米50俵を固辞する秀家に渡すと、涙を流し喜んだといいます。

 なお、この家臣から報告を受けた正則は、家臣の行動を褒めた上で落涙したそうですが、この話が幕府に伝わって嫌疑を受けてしまったため、やむを得ずこの家臣は切腹してしまったということです。

 またある時、幕府の代官が秀家を屋敷に招き食事を出したところ、秀家はご飯を2杯おかわりした後、3杯目は手ぬぐいに包んで持ち帰ろうとしました。

 代官が不思議に思い訳を尋ねると、
「このような上等な食事は口にできないので家人に持って帰りたい」
と答えたそうです。

 この秀家の窮状を伝え聞いた前田家が、隔年ごとに金や食料を船で届けるようになってからは暮らし向きが少しは楽になったようですが、それでも苦しい暮らしに変わりはなかったでしょう。

 後年、前田家の使者が当主利常(秀家の義弟)の意向として、

「もし八丈島から帰りたい気持ちがあるならば、公儀に頼んで前田家領から10万石を分け与えるが如何」

と尋ねたところ、秀家は目を閉じてしばらく考えた後、

「旧領国である備前・美作らの内一郡欠けてもいやでござる。利常殿にはその御心遣い感謝する旨伝えてくれ」

と答えたといわれます。真偽のほどは分かりませんが、今更徳川体制の中に身を置く気はなかったかもしれませんね。

 また、当時の岡山藩主池田家の船が難破して八丈島に流れ着いたことがありました。船の者が秀家に会い、昔岡山を治めていた宇喜多秀家であることを知って積荷の中の一つの酒樽を送ったところ、涙を流して喜んだと伝わります。

 秀家は結局許されることがないまま八丈島での暮らしは50年に及び、明暦元年(1655年)11月20日、82歳でこの世を去ったのです。

 そのころ、徳川将軍家は家康の曾孫4代将軍家綱になっていました。人生の大半を八丈島で過ごした秀家は亡くなる前どのような心境だったのでしょう。

その後の宇喜多家(宇喜多秀家の子孫)

 一緒に八丈島についてきた家族や家来、その子孫はそのまま代々八丈島で生きてきましたが、秀家の死後も前田家からの援助はその後200年も続きました。

 本家の外、多くの分家もできて、途中八丈島を襲った飢饉や疫病に被害を受けながらも、農業を生業として存続します。

 明治になり新政府から罪を許された宇喜多一族は、明治3年に71人が東京の加賀藩前田家の下屋敷に引き取られ、前田家から金千両と5町の土地を与えられました。

 ちなみに一族は平民とされたため、前田家や島津家を通して訴えなんとか士族に編入されたそうです。

 なお、廃藩置県により前田家の庇護がなくなった後は次第に生活が困窮し、一族離散してしまったようです。

 赦免されずそのまま八丈島で暮らしていた方が幸せだったのかも・・・(一部は島に帰って現在も宇喜多家の墓を守っているそうです)

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