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豊臣秀頼生存伝説~薩摩に落ち延びた?

 豊臣秀頼は、元和元年(1615)の大坂夏の陣で母淀君とともに大阪城で自刃して死亡しています。

 自刃した櫓には多くの黒焦げ遺体がありどれが秀頼か判明しなかったため、当時から、大阪城では死なずに脱出し逃げ延びたとの噂がありました。

 大名が記録した説などいくつかの生存説がありますが、代表的な伝説を紹介します。

豊臣秀頼生存伝説

 生存伝説では、大野治長たちが秀頼を小舟に乗せて堀と川を通じて大阪城を脱出させ、加藤忠広(加藤清正の子)の手の者が引き受け、二重底の大船に隠して瀬戸内海を九州へ向かい、肥後(熊本)の忠広の元に一旦匿われます。

 その後従者の数を減らし、更に遠く離れた薩摩(鹿児島)の島津家の元に移りますが、島津家では幕府を畏れ、内々に秀頼の身の処し方を幕府に伺いを立てたそうです。

 しかし幕府では大事にせず、
「すでに秀頼は大阪で死んだと公にされていることから、生きていたとしても死んだも同然なのでほっておいていい。ただし決して他国には出さないこと」
と内々に回答されたため、そのまま鹿児島にとどめおいたとのことです。

 鹿児島での土地の伝説として、

元和の始め、谷山村(現鹿児島市)に素性の明らかでない浪人が藩から家を与えられ住み着いた。
浪人は無類の酒好きで、いつも酒に酔っては周囲に絡むため土地の人からは嫌われていた。
しかし藩から「決して浪人に手を出してはならぬ」とお触れが出ており、百姓だけでなく武士でさえも避けて通った。
しかも男は店で飲食しても「よきにはからえ」と金を払わずに立ち去り、男の監視役であった伊集院家の者が後で立て替え払いした。
人々は「たにやまいんのくれにげ」(谷山犬の食い逃げ)と呼んでいた。

との話があったとのことで、この男が秀頼といわれ、鹿児島市の谷山地区には豊臣秀頼のものと伝わる墓もあります。

 肥後の加藤家は豊臣家恩顧の大名であり、また島津家は関ヶ原の戦いの後に薩摩で宇喜多秀家を匿った実績もあります。美化されたわけでなく人間くささが残る面白い話だと思います。

 他にも秀頼の子国松も含めた複数の伝説があり、豊後日出藩木下家(秀吉の妻北政所の血縁)の一族の者として別人の名で生き延びた話も真実味があり興味深いですね。

 なお、実際に国松や娘の天秀尼は大阪城を脱出後に捕らえられており、城を脱出すること自体は可能であったようです。

天草四郎は豊臣秀頼の落胤豊臣秀綱?

 ちなみに、島原・天草の乱の際に一揆の首謀者達が、民心を繋ぎ豊臣残党を集めようと、天草四郎のことを秀頼の落胤で本名は豊臣秀綱であると言いふらしたといわれています。

 当時から秀頼が薩摩に落ち延びたとの風説があったため、それを利用したプロパガンダの一種だったのでしょう。

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