明智光秀の子孫!?
三宅藤兵衛重利は、明智光秀の従兄弟といわれる明智秀満の子で、母は明智光秀の娘とも伝わります。本能寺の変後に光秀が討たれたときはまだ1歳で、家臣に連れられて追手を逃れ寺で育ち、後に叔母である細川ガラシャに庇護されたといわれています。
その後藤兵衛は肥前唐津を領する寺沢広高に仕えて重く用いられ、元和7年(1621)には寺沢家の飛び地領である肥後天草の富岡城代を任されます。(一説には1629年)
三宅藤兵衛と島原・天草の乱
天草は元々キリシタン大名であった小西行長が治めていた地であり、禁教令の後も多くのキリシタンが残っていたため、藤兵衛はキリシタンを厳しく取り締まったようです(元は藤兵衛も細川ガラシャ同様キリシタンでしたが、既に棄教していました)。
取り締まりにより多くの信者はキリスト教を棄教しますが、それは表向きのことで、隠れた信仰は続いていました。
天草と海を隔てた島原もキリシタン大名であった有馬晴信が治めていた地であり、その後入った松倉家によりキリシタンは弾圧されますが、天草と同様に隠れた信仰が続いていたのです。
そして寛永14年(1637)10月25日、それまでの圧政や切支丹弾圧に抗して島原で一揆が起こり、それに呼応して数日後には天草でも一揆が起こります。
一揆勢には小西旧臣も多く入っており、単なる百姓の寄せ集めではなく、一揆勢は寺社を焼き払いながら村々から人を集めて勢力を拡大していきます。
しかし富岡城の兵は雑兵を集めても2、300人程度しかおらず、藤兵衛は付近の村が一揆に加担しないよう人質を取りながら早急に本国の唐津に早船で応援を求めると、11月7日には1500人の兵が天草に到着したようです。
一揆勢も日に日に勢力を増し数千人(一説には6千)に膨れ上がっており、藤兵衛は富岡城を出て、14日に援軍とともに天草の本渡で一揆勢と決戦に及びますが、決死の精神で襲い掛かる一揆軍に藤兵衛率いる唐津藩軍は散々に打ち負かされ、藤兵衛はじめ主だった武将は討ち取られてしまったのです。
唐津藩軍は富岡城に逃げ帰り、藤兵衛の首は家来の首と共に一揆勢により晒されたそうです。
一揆勢は富岡城に押し寄せ激しく攻め立てますが、援軍の将原田伊予の指揮の下よく守り、一揆軍が攻めあぐんでいるうちに幕命による各藩討伐軍の接近を知り、天草の一揆軍は海を渡って島原の一揆軍と合流します。
こうして富岡城に籠った唐津藩軍は何とか生き残り、戦いの場は島原での原城籠城戦へと移っていったのです。
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