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小西行長~謎の多い切支丹大名

キリシタン大名小西行長

 小西行長は元は商人の子で、備前国の戦国大名宇喜多直家に仕えた後に豊臣秀吉に仕え肥後半国を領し活躍するも、関ヶ原の戦いで敗れて刑死したキリシタン大名です。

 父は堺の有力な商人でしたが、後に秀吉に仕えて九州平定や朝鮮出兵の際に兵站を担当するなど、とても優秀な人材だったと思われます。父母ともにクリスチャンで、行長自身も敬虔なクリスチャンとなりました。

 行長は若いころ岡山の商家に養子入りし、宇喜多家に出入りするうちに才能を認められて家臣となります。

 その後、宇喜多家と秀吉との間で活躍するうちに秀吉にもその才能を認められて直接仕えることとなり、順調に出世を重ねます。

 宣教師の記録では秀吉に「海の司令官」とされ、70艘の水軍を率いて大友宗麟が信長に贈った大砲1門などを使って根来衆と戦ったとあります。

 九州平定後の天正16年(1588)には肥後南半国24万石(北半国は加藤清正)を与えられましたので、相当な切れ者だったのでしょう。

 キリシタン大名であった行長に対し清正は熱心な日蓮宗信者であり、元からそりが合わなかったのでしょう。肥後天草の国衆鎮圧でもキリシタンが多い天草衆に同情的であった行長に対し、清正は力で鎮圧していきます。

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加藤清正は豊臣秀吉子飼いの武将として賤ケ岳の戦いや朝鮮出兵で活躍しますが、行政手腕にも優れ土木の神様ともよばれています。

 なお、小西領ではキリシタンが爆発的に増えていきます。宣教師は

「行長は熱心な信徒にしてよく宣教師を保護し、しばしば多額の寄付をして布教や慈善事業を援助し、その領内において保護する信徒十万人に達す。実に彼こそ日本キリスト協会の柱石たり」

と記しています。
なお旧来の神社仏閣に関しては破壊されるなどの迫害を受けたようです(>_<)

 朝鮮出兵では先鋒を務め、二番隊の清正と互いに戦功を競い合い快進撃を続けます。商人の出であったにもかかわらず他の名だたる大名をさしおいて先鋒を務め、見事にその役割を果たし講和交渉についても柔軟に行っています。

 切れ者の行長でしたが、最後にミスを犯します。関ヶ原の戦いで石田三成の西軍についたことです。

 当初の軍議の際、先手を打って家康本陣への夜討ちを主張した行長に対し、三成は「天下分け目の戦にふさわしくない」と反対し実行されず、結局関ヶ原で敗れてしまいます。

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行長の最後

 行長は逃れますがクリスチャンであるため自害することができず、進んで縛につき京都六条河原で斬首されます。

 斬首前にはクリスチャンであるからと僧侶の読教を断り、自ら神に祈りをささげたといわれています。

 行長は、名家の出でもなく小西家も滅んでいるため、限られた記録しかなく謎の多い武将ですが、関ヶ原で東軍についていれば一代で大国の太守になったことは間違いなく、類まれな才能を持った傑出した武将であったと考えられます。

小西行長と加藤清正

 行長の居城、肥後の宇土城は加藤清正の軍勢に囲まれ、留守を預かる行長の弟小西隼人以下防戦に努めるも、関ヶ原の敗戦を知り隼人は自分の切腹と城兵の赦免を条件に開城し切腹します。

 肥後を分け合っていた清正とは対比されやすく、一般に行長は行政官僚で清正は武人であるとのイメージが強いですが、行長は勇猛で武功も甚だしく、一方清正は行政手腕に優れ土木の神様ともいわれているところが興味深い所だと思います。

 敬虔なクリスチャンであった行長と熱心な日蓮宗徒であった清正とは元々相容れない面があり、朝鮮出兵での確執からその溝は決定的なものとなりましたが、二人とも傑出した能力を持った武将であったことは間違いないと思います。

行長の子供たち(子孫)

 宣教師たちが残した記録によると、行長が死んだとき、12歳になる男子とその他数名の女子がいたといわれます。

 男子はキリシタンの家臣数名と共に毛利家に預けられていたそうですが、「一層身の安全を図る」との虚偽の口実の下に同年輩の少年数名及び家臣1人と共に大坂に送られ、そこで密かに殺されて首級は家康の許へ送られたといわれます。

 娘の1人は洗礼名をマリーといい対馬の宗義智に嫁いでいたところ、関ヶ原後に離縁となって長崎に移り、1605年に没します。

 その他生き残った主な一族は、キリスト教の信仰を捨てず1627年に長崎から船でマカオに渡ったといわれています。

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