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織田信長の子孫~信長の息子11人のその後

 織田信長の息子たちは本能寺の変後どうなったのでしょう?また、その子孫は幕末まで生き残っていたのでしょうか?今回は11人の息子たちとその子孫の事蹟を紹介します。

嫡男織田信忠の子孫

 信忠は信長の生前に織田家の家督を譲られており、正式な後継者でした。甲州征伐では織田軍の総大将として武田家を滅亡に追い込んでおり、武将としての能力も高く、後継者として十分な資質を備えた人物であったといわれています。

 甲州征伐後は、信長から「天下の儀も御与奪」と、将来的には織田家の家督だけでなく天下人の地位も信忠に譲る意志を表明されています。

松姫(信松尼)と督姫・貞姫・香具姫~生き延びた武田の姫たち
天正10年(1582)、織田信忠の甲斐侵攻により武田勝頼は自害し武田家は滅ぼされますが、信玄の娘松姫は武田家の幼い姫たちを連れて逃げ延びます。その後の姫たちは・・・

 信長の後継者としての道を順調に歩んでいた信忠でしたが、天正10年(1582)の本能寺の変で明智軍と二条新御所において戦い、自刃するという最期を迎えます。信長が死んだだけでなく、信忠まで死んでしまったことがその後の織田家の凋落につながったといわれています。

織田秀信(三法師)

 信忠の長子であった秀信は羽柴秀吉によって擁立され、一時は織田家の家督を相続しています。秀吉によって美濃国岐阜13万石を与えられ、最終的に正三位権中納言に昇っています。信長の嫡孫として、それなりの待遇を受けていたことがわかります。

 しかし、関ヶ原の戦いで西軍に付いたため、美濃国岐阜13万石を没収されて、高野山に流されました。秀信は高野山で修行を積むことになりますが、祖父信長の行った高野山攻めが仇となって、迫害を受けたといわれています。

 その後、高野山を追放され(追放理由は不明)、紀州向副村に閉居し、しばらくして亡くなったと伝えられています。高野山を追放されたあとに、紀州向副村の地元の豪族の娘との間に子供を儲けたとの話が伝わっていますが、詳細は不明です。

 『寛政重修諸家譜』の秀信の項を以下に記します。
「三法師 参議従四位下 中納言従三位 天正十年安土城より美濃国岐阜城にうつり住し、十三万三千石を領す。文禄元年正月十日従四位下に叙し参議に任ず。慶長元年五月十一日従三位に昇り中納言にすすむ。五年石田三成が謀反に与し籠城す。

八月二十三日福島正則、池田輝政等の諸将囲みせむ。兵募衆に敵しがたく城終に陥る。秀信自殺せむとす。正則懇にこれを制するがゆへに死を止りて虜となる。関原の乱平ぐののち薙髪して高野山に遁る。十年五月八日彼地にをいて卒す。」

 また、秀信の弟秀則(従四位下侍従)は、関ヶ原の戦いで兄と共に岐阜城に籠城しますが、戦後は豊臣家を頼り大坂城下に移り住んでいます。その後、寛永2年10月27日、京都において死去しています。娘が小笠原家に嫁いだとされていますが、よく分かっていません。

次男織田信雄の子孫

四男信良の系統

 信雄(「織田信雄のその後」参照)には何人もの男子がいましたが、兄たちが早世したため、跡を継いだのは四男の信良です。

 信良は上野小幡2万石を信雄より譲り受け、小幡藩を立てました。元和9年(1623)には従四位上左近衛権少将に昇ります。

 この官位は加賀前田家に次ぐもので仙台伊達家とほぼ同格という2万石の外様小大名としては破格のものでした。

 信長の嫡流であったため別格の扱いを受けていたのです。さらに信良の娘は徳川忠長と結婚しています。

 しかし、7代藩主信邦の時に明和4年(1767)に起きた明和事件(尊王論者山県大弐らの弾圧事件)に巻き込まれて代々信長の子孫として受けていた国主格の待遇を失ってしまいました。

 その後、出羽高畠藩(のち天童藩)に転封となります。財政は厳しく、現在有名な天童の将棋の駒は、織田家臣が内職で作っていたことで普及したといわれています。

 幕末の東北戦争では当初官軍側についていましたが、庄内藩の攻撃を受けて大敗するのです。

 そして奥羽列藩同盟が結成されるとやむなく同盟軍に参加し、さきに官軍側についた責任を取り家老の吉田大八が切腹しました。

 最終的には官軍に降伏し、廃藩置県を迎えることになります。

五男高長の系統

 信雄の五男高長は、信雄の所領のうち大和国宇陀31200石を受け継ぎますが、高長の孫の信武が、寵臣の讒言により無実の重臣らを処刑したうえ自身も自害したとされる宇陀崩れが起きます。

 そのため子の信休は丹波柏原(かいばら)藩2万石に移封となり(元々柏原は信長の弟信包の系統が大名となっていましたが、無嗣断絶後天領となっていました)、その後代々柏原藩主を務め明治維新を迎えています

 また、高長の三男長政は3千石を分けられて別家を立て、その子信明(のぶあきら)は高家に列せられています。

三男織田信孝の子孫

 信孝は清洲会議後、羽柴秀吉・織田信雄と対立することになります。その後、天正11年(1583)に居城であった岐阜城を開城したのち、信雄の命令によって自害させられます。これには秀吉の内意があったともいわれています。

 そして、辞世の歌
「むかしより 主をうつみの 野間なれば むくいをまてや はしば筑前」
を書いた後、切腹の際、腹をかき切って腸をつかみ出すと、床の間にかかっていた梅の掛け軸に臓物を投げつけたといわれています。享年26。

 安養院には自害に使用した短刀とその血の跡が残る掛け軸が伝来しています(非公開)。公式には子はいないため、子孫は存在しません。

四男羽柴秀勝の子孫

 秀勝は永禄11年(1568)、信長の四男として生まれます。天正4年(1576)10月、子を亡くした羽柴秀吉の養子になり、羽柴家の跡継ぎとされました。本能寺の変で信長が死去したのち、山崎の戦いでは、羽柴軍の旗印として参戦しています。

 清洲会議ののちは、丹波亀山城主となり、賤ヶ岳の戦い、小牧長久手の戦いにも参加します。天正13年(1585)には正三位権中納言に昇っています。しかし、同年12月10日、18歳の若さで病死しました。子がいなかったため、子孫は存在しません。

五男織田勝長(信房)の子孫

 信長の五男ですが、生年は不明です。幼少(幼名御坊丸)のころ、美濃国岩村城主遠山氏の養子となったといわれています。元亀3年(1572)に岩村城が武田方に付いたことで、甲府の武田信玄の下に人質として送られることになります。

戦国の女城主3~おつやの方
おつやの方は織田信長の叔母で、夫の死後美濃岩村城の主でしたが、後に武田家臣秋山信友の妻となり、最後には信長から夫共々処刑された女性です。

 天正8年(1580)に武田勝頼が織田家と和睦交渉を試み、その過程でようやく織田家に返還され、犬山城主となります。しかし、天正10年(1582)の本能寺の変において、二条新御所で兄信忠の軍勢に属して戦い、18歳で戦死しています。

 『寛政重修諸家譜』の勝長の項を以下に記します。

「童名坊 源三郎 はじめ質となりて武田信玄がもとにいたる。信玄養て子とす。天正九年甲斐国より安土にかへり、十一月二十四日元服し尾張国犬山の城をたまふ。十年六月二日二条の御所にをいて兄信忠とともに戦死す。」

 子の勝良は、後に加賀前田家に仕えたといわれています。

六男織田信秀の子孫

 信秀は信長の六男として生まれます。生没年は不詳。祖父の織田信秀と同名です。本能寺の変までの事績は不明。天正13年(1585)年、従四位下侍従に叙任され、羽柴性を授けられています。天正16年(1586)4月の後陽成天皇の行幸の時に秀吉に提出した忠誠を誓う起請文には、国持大名22名とともに署名しています。

 このことから、信長の子として秀吉から特別待遇を受けていることがわかります。文禄元年(1593)の文禄の役では、兵300を率いて肥前名護屋城への駐屯しています。没年は不詳。長男重治がいましたが、その後の子孫の動向は不明です。

 比叡山にいた次男の虎法師は、賊により殺されたとされています。

 娘は江戸幕府旗本の西尾氏教に嫁いでいます。

七男織田信高の子孫

 信高は、天正4年(1576)に信長の七男として生まれます。本能寺の変後は氏家行広によって養育され、天正13年(1585)から羽柴秀吉に仕えています。

 天正19年(1591)に近江国内で1060石を与えられ、文禄4年(1595)には1000石加増されています。関ヶ原の戦いでは西軍に属して領地を没収されたと考えられています。慶長7年(1603)死去。

 元和2年(1616)、信高の嫡男高重は幕府に召し出され、2000石を与えられます。その孫の信門が高家となり、明治維新まで高家旗本として存続しています。

 フィギュアスケーターの織田信成氏が信高の子孫を自称していますが、家系図が信成氏の祖父から幕末の当主信真まで空白になっており、信憑性に疑問をもたれています。

八男織田信吉の子孫

 本能寺の変後、母とともに近江国に蟄居していましたが、天正11年(1583)に羽柴秀吉に召し出され、近江国内で2000石を与えられます。

 関ヶ原の戦いでは西軍に付いたため改易となり、『寛政重修諸家譜』によると、元和元年(1615)4月18日に京都で亡くなっています。長男了甫の子吉雄は丹後宮津藩主京極高国の家臣となっています。その後の子孫の動向は不明です。

九男織田信貞の子孫

 信貞は、天正4年(1576)に信長の九男として生まれます。本能寺の変で父信長が死去したため、埴原(はいばら)加賀守長久に養育されたといわれています。その後、豊臣秀吉の馬廻となり、近江国内で1000石を与えられます。

 しかし、関ヶ原の戦いで西軍に属し伏見城攻めに参加したため、戦後に改易されました。その後、家康に召し抱えられ、大坂の陣では徳川方として従軍しています。寛永元年(1624)に死去。

 『寛政重修諸家譜』の信貞の項を以下に記します。

「天正十年右府事あるののち、埴原加賀長久がもとに養育せられ、其のち豊臣太閤に属し、近江国神崎蒲生二郡のうちにをいて采地千石をたまひ、従五位下左京亮に叙任す。慶長五年関原の役起るのとき、兄左衛門佐信高とおなじく馳参るのところ、既に御帰陣あるにより美濃路にをいて東照宮に拝謁し、のち御貴下に属し、寺領をたまひ采地に住す。其後大坂両陣に供奉し、寛永元年六月六日采地にをいて死す。年五十一。法名宗恵。京都東山の上行寺に葬る。」

 信貞の長男信次の子である貞幹は、尾張藩主徳川光友に召し抱えられ、家老にまで昇ります。信貞の次男貞置は、兄が病弱であったため、跡を継ぎ知行1000石の旗本になっています。

 貞置はのちに高家に就任しており、幕末まで代々高家旗本として存続しました。ちなみに、貞置の妻は、織田家重臣で信長から追放された佐久間信盛の嫡男正勝(信栄)の娘です。貞置は89歳まで長生きし、宝永2年(1705)に亡くなっています。

 なお、幕末の当主信任は、維新後の明治4年(1871)に、知人から織田家の家臣であったように籍を偽造するよう頼まれ、断ったところ逆恨みされ、妻子とともに殺害されるという悲劇に遭います。犯人はその後捕らえられて、死罪となっています。

十男織田信好の子孫

 信長の十男として生まれます。本能寺の変後は、秀吉に引き取られ、のちに家臣となったようです。茶人であったともいわれています。その他に詳しい事績はわかっていません。『寛政重修諸家譜』では、慶長14年(1609)7月14日が没年となっています。子がいなかったため、子孫は存在しません。

十一男(末子)織田長次の子孫

 長次は信長の十一男として生まれます。生年は不詳です。本能寺変後、羽柴秀吉の馬廻となります。関ヶ原の戦いでは西軍に属し、兄信吉とともに大谷吉継の隊に所属して戦いますが、平塚為広らとともに戦死します。子がいなかったため、子孫は存在しません。

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