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室町時代の名門・三管領四職はその後どうなった?

三管領四職とは?~室町幕府将軍の補佐役

 室町幕府の三管領とは、足利一族であった「斯波」「細川」「畠山」の三家で、将軍補佐役の管領はこの三家からしか選ばれませんでした。

 四職とは、室町幕府侍所の長官であった所司に交替で任ぜられた「山名」「赤松」「一色」「京極」の四家のことをいいます。

 室町幕府の中心として幕府を動かしていたこの7家は、戦国、江戸時代にはどうなっていったのでしょうか?

 それぞれの家ごとに紹介していきます。

三管領四職のその後

斯波家

 室町時代は越前、尾張、遠江三か国の守護を務めていましたが、下克上の時代となり、越前は朝倉家に、尾張は織田家に、遠江は今川家に支配されるようになって斯波家は衰退していきます。

 斯波宗家最後の当主とされる斯波義銀は、織田信長に庇護されるようになった際に、元々織田家の主筋に当たる斯波姓を憚ってか津川と改姓し、後に豊臣政権下では足利義昭、山名豊国らと共に秀吉の御伽衆となっています。

 義銀は慶長5年(1600)に死去し、子孫は肥後細川家などに仕えたようです。

畠山家

 畠山義就(総州家)と政長(尾州家)が争った応仁の乱などでの家内の勢力争いで次第に衰退し、かろうじて政長の系統(尾州家)が紀伊で勢力を保っていましたが、天正13年(1585)に畠山貞政が秀吉から討伐を受け完全に所領を失ってしまいます。

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その後生まれた貞政の子政信は、豊臣氏重臣であった片桐且元の娘婿となり豊臣氏に仕えましたが、大坂の陣前に且元とともに豊臣氏を離れて、後に徳川家臣となり家光に仕えて300石を与えられています。

 政信の跡を継いだ子の基玄は畠山家嫡流という血統から高家に列せられることとなり、また、将軍綱吉のお気に入りだったようで石高も5,000石まで加増され、子孫は代々高家畠山家として存続しています。

 なお、総州家、尾州家と別に能登守護を務めていた能登畠山家の系統がありますが、最後の当主義綱が上杉謙信に攻められて国を追われると、その弟義春は上杉一門の上条政繁の養子となり上杉景勝の姉を妻とします。

 その後義春は養父上条政繁と共に上杉家を出奔し豊臣氏に仕えましたが、尾州家の畠山政信と同様に大坂の陣前に豊臣氏を離れ、その後徳川家に仕えています。

 義春は後に上杉家と和解して、義春の長男景広の家系は代々上杉家に一門衆として仕え、次男の長員は上条上杉家の名跡を継ぎ子孫は代々高家上杉家となり、三男義真は能登畠山家の名跡を継いで子孫は代々高家畠山家として存続しています。

ということで、江戸幕府高家には、尾州家と能登畠山家の2家の畠山家が存在していました。

細川家

 摂津、河内、和泉、讃岐、阿波などの守護を務めた家で、応仁の乱で東軍総大将となった勝元の子政元が修験道に傾倒し子がいなかったことから、細川宗家(京兆家)は内部分裂し衰退していきます。

 戦国末期の細川京兆家当主昭元は織田信長の妹御犬の方を妻としており、後に豊臣秀吉の御伽衆の一人となっています。

 その子元勝は豊臣秀頼に仕えていましたが、大阪の陣から落ち延びるも間もなく死去し、元勝の子義元は元勝の姉妹が嫁いでいた秋田家に迎えられます。

 そして、姉妹は当主俊季の母となり、京兆家子孫は家老である年寄衆より上席で別格の御両家(細川家と荒木家)として幕末まで秋田家の城代あるいは大老を勤めました。

 なお、宗家とは別に傍流(室町幕府2代管領細川頼之の弟頼有の子孫)である細川藤孝が戦国の世で頭角を現して、子孫は代々熊本藩主として存続し、熊本県知事や内閣総理大臣となった細川護熙氏を輩出しています。

山名家

 一時、一族で日本全国66か国中11か国の守護を占めたことから「六分の一殿」や「六分の一家衆」と呼ばれ、応仁の乱で山名宗全が西軍総大将を務めるなど管領家に匹敵する勢力を誇りましたが、宗全の死後は内部分裂により衰退していきます。

 戦国末期には但馬(兵庫県北部)守護家と因幡(鳥取県東部)守護家が残っていましたが、織田家の中国侵攻により但馬守護家の山名祐豊が羽柴秀吉に攻められて滅亡してしまいます。

 なお、祐豊の子堯熙は開城前に城を出て秀吉に臣従し豊臣家臣となりましたが、堯熙の子堯政は豊臣方として大阪の陣で討死し、その子恒豊は母とともにしばらく京都に潜居した後、山名旧臣で幕臣となっていた清水正親の養子となり、所領を譲られ徳川旗本となっています。

 祐豊の甥豊国が跡を継いでいた因幡守護家も秀吉に攻められましたが、元々織田方に付こうとしていた豊国は単身秀吉に降伏しています。なお、残った鳥取城の家臣らは、毛利家に臣従し城主吉川経家のもとで「鳥取城の飢え殺し」と呼ばれる過酷な籠城戦を戦った末、秀吉に降伏します。

 豊国は秀吉の御伽衆を経て関ヶ原の戦いでは東軍として参戦し、関ヶ原の戦い後に家康から但馬国七味郡6700石を与えられて存続に成功したのです。

 山名家は徳川家と同じ新田家の家筋として幕府から尊重され、豊国の子孫は代々上級旗本である交代寄合として存続し、明治維新後は開発していた新田を合わせて1万1000石への高直しが認められ村岡藩を立藩して、山名家は後に男爵となっています。

一色家

 三河、若狭、丹後の守護を務めていましたが、若狭武田家に実権を奪われるなど衰退していきます。

 戦国末期は一色義定が丹後(京都北部)北半国を統治していましたが、天正10年(1582)の本能寺の変後に、丹後南半国を治めていた長岡(細川)藤孝に謀殺され滅亡してしまいます。

 なお、丹後の一色家以外にも系統はあり、古河公方に仕えていた一色家が家康に仕え、子孫は代々大身の旗本として存続しています。

赤松家

 赤松満祐が足利6代将軍義教を殺害した嘉吉の乱により赤松家は討伐を受け領国を失い滅亡しかけます。その後遺臣の働きにより復興を果たしますが、戦国の世の中で浦上家、尼子家、三好家などの勢力に押されて次第に衰退していきます。

 戦国末期の当主義祐の代には播磨にわずかに勢力を残すのみとなり、信長の中国侵攻が始まると義祐の子則房が秀吉に臣従してなんとか存続に成功しますが、則房の跡を継いだ子の則英が関ヶ原の戦いで西軍に付いて敗れて京都で自害し、赤松本家は滅亡してしまいました。

 なお、本家と別に庶流であった石野赤松家は戦国末期の当主氏満と弟貞重が秀吉に属した後、前田利家に仕えます。

 また、氏満の子氏置は祖父から養育された後に家康に仕えたことで、子孫は代々3000石の旗本として存続しており、氏置の曾孫範恭の代に姓を石野から赤松に復姓しています。

 こちらも庶流ですが、赤松満祐の叔父義祐を祖とする摂津有馬氏一族の有馬則頼が秀吉、家康に仕えて大名となり、子孫は久留米藩主として明治まで続き、維新後は伯爵となっています。

京極家

 近江や出雲など数か国の守護を務めていましたが、応仁の乱後に家督争いなどで衰退し、代々守護を務めていた近江も浅井家に取って代わられ実権を失い、名目ばかりの家となってしまいます。

 戦国末期の当主高吉の子高次が織田信長に仕えてなんとか存続に成功するものの、本能寺の変後に明智側に付いたことで取り潰しの危機を迎えます。

 しかし秀吉の側室となった妹竜子の嘆願などにより存続が許され、秀吉の九州平定後には1万石を与えられ京極家は大名として復活するのです。

 高次の母は浅井長政の姉であり、従姉妹にあたる浅井三姉妹の次女初(淀君の妹)を妻にしたこともあってか豊臣政権下で安泰した地位を確立しその後も加増を重ねていきます。

 更に高次は関ヶ原の戦いで東軍で活躍したことで若狭(福井県南部)一国を与えられ、同じく東軍に付き丹後一国を与えられた弟高知とともに京極家は近世大名としての存続に成功し、京極各家は維新後子爵となっています。

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