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足利義昭~信長に追放されたその後

 足利義昭は元亀4年(1573)、信長により京都を追放され、240年続いた室町幕府は事実上滅亡することになります。追放後の義昭はどうなったのでしょうか?

 義昭は京を追われた後、各地を転々とし最終的に毛利家を頼って備後国鞆に落ち着きます。

 毛利家の元へ亡命した後も上杉謙信武田勝頼に御内書を送っており、信長打倒を諦めたわけではありませんでした。凄い執念ですね(^-^;

 結局、謙信は死に武田家は滅ぼされ義昭の悲願は達成できないところでしたが、天正10年(1582)に本能寺の変が起こります。

 義昭は信長打倒の活動を続けており、明智光秀は元々義昭の家臣であったことから、本能寺の変については昔から「足利義昭黒幕説」もあり、近年ではそれを匂わせる光秀の文書も発見されています。

 とにかく、その後秀吉と毛利家が和解したことで義昭の京都復帰の願いが叶うこととなったのです。

 秀吉からは山城国槙島に1万石を与えられ、また、準三后の称号(朝廷において、太皇太后・皇太后・皇后の三后(三宮)に准じた処遇を与えられた者)を得ています。

 家康と今川氏真の関係もそうですが、秀吉と義昭は信長時代にある程度良好な間柄だったのではないでしょうか。義昭は京都追放後も征夷大将軍の位を保持していたので、その権威を利用することが一番の理由だとは思いますが、、、

 朝鮮出兵時には、秀吉に従い肥前名護屋に赴いています。秀吉としても前将軍を引き連れていくことで、今までの為政者より自分の方が上だと思わせる狙いがあったことでしょう。

 慶長2年(1597)、義昭は大坂で61歳の生涯を閉じます。室町幕府最後の将軍として波乱万丈の一生を送った義昭でしたが、歴代の将軍の中では比較的穏やかな最期を迎えたのではないでしょうか。


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