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武士の忠義に関する逸話

「乞食大名」鮭延越前

 「乞食大名」として知られる逸話です。

 鮭延(さけのべ)越前守秀綱は、出羽の鮭延城主として最上家に仕えていた武将で、1万5000石を領し、関ヶ原の戦い時における上杉家との戦いなどで活躍しています。

 最上家が改易となった後、越前の家臣20名が、「乞食をしてでも養おう」と誓い、それぞれ人夫などをしながら越前を養ったといわれています。

 このことを知った土井利勝に5000石で召し抱えられることとなったのですが、越前はこの5000石全てを家臣20人に250石ずつ分け与えて、自身は屋敷を持たず、その20人の家臣の家を1日ごとに渡り歩いて暮らしたといわれています。

 屋敷は持たずとも、越前や家臣達にとっては幸せな暮らしだったのではないでしょうか。

 越前の死後、家臣たちは鮭延寺という寺を建立し、その菩提を弔っています。

明石全登の行方は?

 大坂の陣で大坂方の武将であった明石全登は、大坂落城の際に討死したのか落ち延びたのか分かりませんでした。

 そこで、捕らわれていた明石家臣の澤原孫太郎(孫右衛門とも)が問いただされるも、知らぬとしかいいません。

 そこで澤原は拷問にかけられましたが、それでも白状しなかったため、拷問は厳しさを増していきます。

 そのような中、澤原が涙を流し始めたため、ついに白状するのかと思われたところ、澤原は、

関東の両御所(家康、秀忠)は運が強い。
侍たる者、たとえ骨を刻まれても主君の行方を言うことがあろうか。
もし今回の戦で大坂方が勝って両御所が落ち延びていったなら、貴殿たちを捕えて今のように責苦を負わせるならば、主君の行方を白状する心があるからこそ、このように責めるのだろう。

と述べたため、周囲の者は言葉もなく黙ってしまったそうです。

 このことを耳にした家康は、

類まれなる忠義の士だ。よく労わってやれ。

と解放させたそうです。澤原の子孫は細川家や池田家に仕えたといわれています。

松倉旧臣の忠義

 島原の乱後、責を問われ島原藩主であった松倉勝家は江戸で斬首(切腹ではありません)され松倉家は断絶となります。松倉家の旧臣達はことごとく離散しますが、野村治右衛門という新参であった家来が、捨て置かれた勝家の遺骸を引き取り浅草の寺に埋葬したといいます。

 また、内藤瀬兵衛という家来は勝家の命で金300両を持って上京していたところ、斬首断絶を聞き、その金を京都所司代に提出します。所司代は正直な内藤に感じ入り、汝が金子とせよと返却したところ、内藤はその足で勝家の菩提寺に赴き、その金を全て納めて今後の供養を依頼したそうです。

 人々は家が滅ぶときこそ本当の忠臣がわかると噂したそうです。

身代わりによる斬罪

 生類憐みの令が施行されていたとき、旗本秋田季久(三春藩主秋田家分家)の子季唯はまだ幼少であり、吹矢で燕を殺してしまいますが、このことが公儀の耳に入ってしまったのです。

 秋田家家司の多多越甚太夫は「戦場で主君の馬前で討死するのと同じ」として、評定所の取調べでは全て自分のこととして罪をかぶり、千住の刑場で斬罪に処せられたといわれています。