今回は、戦国時代に来日した宣教師の見聞記録の中から、「本能寺の変」とそれに伴う畿内の大混乱に関して記された、1582年11月5日付けルイス・フロイスの書簡を紹介します。
本能寺の変
信長は都に到着すると、羽柴殿が頻りに援軍を求めてきたので、多数の武将とその兵を派遣した。その内の一人は(高山)ジュスト右近殿で、信長が当地に着く一両日前に出発したが、もしそうしていなければ彼もまた網にかかっていただろう。
信長に従い都に留まっていた兵は少数で、彼と世子(信忠)は三、四区画離れた場所に宿泊していた。堺に赴くのは2,3日後と思われたが、その際彼に随行するために同地で待機していた武将たちもいた。
この時安土山には、オルガンティーノ師、ジョアン・フランシスコ師、シメアン・ダルメイダ師らと神学校の少年たちがいた。グレゴリオ師は2,3日前、日本人修道士パウロと共に安土山から美濃国へ帰っていたし、堺にはジョゼフ師と日本人修道士コスメがおり、ここ都にはカリオン師とロレンソ修道士、バルトロメウ修道士がいた。
信長の政庁に、名は明智という、元は低い身分の人物がいた。信長の治世の当初、ある貴族に仕えていたが、才能があったことから大層重用されるようになった。彼は諸人から嫌われ、裏切りを好み、残虐なる処罰を行う非道者であり、人を欺き狡猾な戦術を弄することに長け、勇猛な気質で築城術に精通していた。
このように卑しい出であったが、信長は彼に丹波、丹後の二カ国を授け、更に比叡山の大学の全収入を与えたが、これは他国の収入の半ばを超えるものであった。しかし明智はその異常さゆえか更に多くを求め、日本の主となりうるか否かに挑むことを望んだ。
まさにこの時、信長は毛利氏を滅ぼすため、三万の兵を率いて羽柴殿の援軍に行くように彼に命じた。
彼は信長ならびにその世子(信忠)が共に都に居て、さほど多くの兵を連れていなかったことから、両者を葬る絶好の機会と捉え、企てを実行する決意を固めたので、明智は兵をことごとく当地から五里の所にある丹波国の一城(亀山城)に集めた。
兵士たちは皆、それが戦場へ向かう道ではなかったので驚いたが、彼は賢明で何人にも己の決心を悟られなかった。
軍勢が城に集結した時、かれは四名の武将を呼び、密かに信長とその息子を殺して天下の主となることに決心したことを語った。皆一様に驚き、彼がすでにこれを行うと決心している以上、その彼を助けるしかないと答えた。彼は直ちに実行方法について命令を発し、何人も裏切らぬよう彼の面前で武具を身に着けさせた。
こうして夜半に彼らは出発し、都に着いた時はすでに明け方であった。明智はさらに、己の留守中に不穏なことが起きぬようにと、諸城を整備し絶えず警戒するよう命じた。
都を前にして彼は、入洛の際、いかに立派に陣容を整えてきたのかを信長に見せるためにと兵装を整えるよう全軍に命じた。さらに全ての銃の火縄に火を付けさせて、槍も用意するよう命じた。兵達は何事かと疑い始め、或いは信長の命により信長の義兄弟に当たる三河の国主(家康)を殺そうとしているのかもと考えた。
信長は都では天王寺(本能寺の誤り)と称する僧院に宿泊することを常とし、すでにそこから仏僧を追い出して相当な屋敷を建てていたが、例の三万の兵は本能寺の付近まで来ると、夜明け前には完全に包囲していた。市中では思いもよらぬことであったので、皆何かの騒ぎが起こったのだと考え、都中に伝わり始めた。
我らの教会は信長の所からわずか一区画しか離れていなかったため、直ちに数人のキリシタンが来て、私(カリオン師)は早朝のミサのため着替えているところであったが、何か大変なことが起きていると思われるので待つように言ってきた。
間もなく銃声が聞こえて火の手が上がった。続いてこれは喧嘩ではなく、明智が信長を裏切って反旗を翻し、彼を包囲したのだとの知らせが届いた。明智の兵は本能寺の門に至ると直ちに中に入ったが、このような謀反は疑われておらず、これに抵抗できる者もいなかったので、入るとすぐに信長を見つけた。
彼は手と顔を洗い終えて手拭で清めていたところであり、兵士達はすぐに彼の背に矢を射かけた。信長はこの矢を引き抜き、長刀、すなわち鎌に似た柄の長い武器を手にしばらく戦ったが、片方の腕に銃弾を受けたので自室に退いて戸を閉めた。
彼は切腹したと言う者も、邸に火を放って死んだと言う者もあるが、我らが知っているのは、かつては声はおろかその名を聞くだけで諸人を畏怖させていた男が毛髪一本残すことなく灰と化したことである。
明智勢はこのように信長を倒した後、本能寺内で青年武士数人を殺害し、建物をことごとく焼き払ったが、これは直ちに都中に知れ渡り、駆け付けてきた数人の武将は街が明智勢に占められていたため近づくことができず、世子(信忠)の邸へと向かった。
世子はまだ就寝中であったが、知らせを聞くと起き、彼の居る所も安全ではないと考えたので駆け付けた部下と共に近くの内裏の御子(誠仁親王)の邸(二条御所)へ移った。これは安土山の邸に次ぐ立派なもので、三、四年前に信長が建て、内裏の御子の住まいとするために贈った邸であった。
世子はこの邸に身を置いたが、急だったので刀以外は携えておらず、また、内裏の御子の邸なのでほとんど武器は無く女性が居るのみであった。
このような人物を迎えるのは御子にとっても迷惑でしかなく、都の所司代村井(貞勝)殿が世子に同伴していたので、彼の勧めによって明智に使者を送り、如何に処することを望みか、また御子も同様に切腹すべきかと問うたところ、明智は、御子には何も求めはしないが信長の世子を逃さぬため、馬にも駕籠にも乗らず即刻邸から出るようにと答えた。この伝言によって内裏の御子は婦人たちと共に邸を出て行った。
邸に残った武士たちは選りすぐりの者たちであったためよく防戦し、一時間以上戦ったが攻め手側が多数でよく武装しており鉄砲を多く持っていたため、勝負は明らかであった。しかし世子は極めて勇敢に戦い、鉄砲と矢によって幾つもの傷を受けた。ついに明智の多数の軍勢が邸内を占め、放火して多くの者が焼け死んだが、彼らに混じって世子もまた、その他大勢の武士とともに最期を迎えた。
明智の兵は多数であり、街路や家屋ごとに巡回して信長の家臣や身分のある人を探し出したが、彼らの首を斬り明智に差出すためであった。明智の前には首が山のように積まれ、死体は街路に放置された。
都の住民たちは皆、事件が終結するのを待ち望み、隠れている者をあぶりだすために明智は都に火を放つだろうと考えた。だが修道院にいる我らが危惧していたのは、明智が悪魔とその偶像を大いに好み、我らに馴染まず、ゼウスの教えに反感を抱くことは確実と思われるからであった。
また、我らは信長に庇護を受けていたから、明智が我らに火をかけその家来たちが教会から略奪しようとすることを恐れたが、そのような中明智は、街に放火せぬから都の住民は何人も案ずるには及ばぬ、むしろ私がこのような成果を収めたことを喜べ、もし乱暴を働く兵士がいたらこれを罰するとの布告を発したので、我らは安堵した。
信長の求めによって巡察師が彼の元に残して行った黒人が、信長の死後、世子の邸へ行き同所で長い間戦っていたので、我らは少なからず心配していたが、明智の家臣が彼に近づき、恐れなくていいから刀を差しだすようにと求めたところ、彼はこれを差し出した。別の家臣が明智の元へ行き、この黒人をいかにすべきか問うたところ、明智は、その黒人は動物であって何も知らず、また日本人でもないから殺す必要はなく、司祭たちの教会に置くように命じた。
こうしたことにより我らは幾分落ち着きを取り戻したが、数日前に信長の義兄弟(家康)が堺へ立ち去ったのは主なるゼウスの恵みであることを知ってからはなおさらのことであった。というのは、彼もまた命を狙われた一人であり、彼の命を奪うには彼の宿泊場所であった邸に隣接する我らの修道院に被害が及んだところであり、或いは彼の邸より我らの修道院の方が堅固であるため彼がここに避難していたら破壊され焼き払われていただろうからである。
安土の大混乱
以上の事を成し遂げた明智は、朝の八時か九時頃、兵を率いて都を出て行き、四里ほど離れた所にある城へ向かった。この城は坂本といい、安土への道中にある。都から安土までは十四里あるから、同日の正午には事件の知らせが届き、市には混乱が生じた。
当日中、あまり確かなことが分からなかったのは、この都から五里の道中に信長がごく最近造らせた日本中で最良と言われた立派な橋があり、この付近に城があって同所を守るための武将がいたが、信長の死を知ると、明智の兵がすぐに安土に行けぬようにするため、ただちにこの橋を破壊させたからである。
それ故数日安土に行くことができなかったが、明智の多大な労力により瞬く間に再び橋が架けられた。川は至極流れがはやく、しかも深かったのでそれは驚きのことであった。
宣教師たちがいかなる苦労をしたのか明らかにするため、ダルメイダ修道士が安土山脱出について述べたことを次に記す。
事件の知らせが安土に届くと、町は最後の審判の日かと思われるほど騒然となり、皆が家を棄てて避難するのを見たので、我らも大いに当惑した。
翌朝、近江出身の一貴族が明智に与し、その証として信長の城近くにある自分の立派な邸に火を付けた。我らはこれが何事であるかも分からず神学校から眺めていたが、すでに敵が来て人を殺し始めたとか、町をことごとく焼き払うといった話を聞き、とにかく我らの命を守らなければならなかった。
修道院の司祭たちは、明智がやってきて安土の城と町を焼き払うだろうという話を何度も聞いていたので、同地のキリシタンたちと協議し、神学校にいる者は安土山から3,4里離れて、長さ25里の湖の中にある島に避難するのが一番良いだろうと考えた。その島の盗賊が、好意を装って船を持って来て、他に道はないと言った。そしてオルガンティーノ師は28名と共に舟に乗り、修道院の番人としてヴィセンテ修道士とその他6,7人を残した。
朝、我々は慌ただしく船に向かったが、私は聖像付十字架と聖母の小さな像を携えて行った。我らは日本人と同じ衣服を着け、銀の燭台、香炉、香入れ、聖杯及び巡察師が残していった緋色のビロードの装飾を持って行くことにした。ジョアン・フランシスコ師は長衣を着て後から来たが、この時市中には略奪者が溢れていたので捕まってしまった。
彼らは同師が銀を携えていると考えて彼の身体をあらためたが、袖が重いことに気付いた。彼は袖の中から祈祷書を出して銀ではないことを示したが、すぐにこれを奪われ、他には何も無かったので彼らは立ち去った。ディオゴ・ペレイラ修道士もまた後から来たので別の略奪者たちに襲われた。
彼らは修道士の帽子と長衣の上に来ていた着物を奪った。こうして彼は難を逃れたが、主の思し召しにより帯に入れていた銀は奪われなかった。私は病身であったため他の人に遅れたが、道行く人々の会話の内容から私も襲われることを恐れた。前の人を見失わないように歩みを進め、船の所に到着した。
我らの案内人が住む沖ノ島という島に着くと、早速船乗りたちは我らの所持品の半分を取ると言い出し、我らはそのような約束はしていないと拒み、運賃のみ支払うと言ったが彼らはしきりに引き渡すよう要求してきた。我らの案内人がこの裏切りの首謀者であり、非常に狡猾で極悪な詐欺師であったので、便宜を図ると見せかけて要求を取り下げさせた。
彼は我らが多くの財を隠し持っていると思っていたようで、我らを島に閉じ込めたことによって、我らの命を一人残らず奪えば事は明るみに出ないと企んだようである。
我らが押し込められていた畜舎に他から盗まれてきたであろう盗品があり、オルガンティーノ師は我らが教会より携えてきた銀をその中に隠した。翌日の夜、我らに同行する忠実で信用できる日本人と共にそれを取り出し、彼に山の中に隠させ、事が治まった後に回収することとした。
主人たちは我らが財物を所持していないことが信じられないため衣服を奪うと伝えてきた。彼らは我らの居る場所をくまなく捜し、銀を見つけたならば口封じに我らの命を奪うことは必定であった。彼らは我らの所持品をあらためたが、銀とビロードの装飾品はすでに隠してあったため結局発見されることはなかった。
このような時に多大な危険を冒して装飾品と銀を運んだ青年は我らにとってゼウスより遣わされた天使のようであった。我らは大いに苦しめられ、わずかな米と水のみをもってゼウスに仕え、いかにしたら自由を得ることができるのか分からずにいたが、主なるゼウスは奇跡的に我らを救ってくれたのである。
すなわち、海賊たちは我らを船に乗せて別の秘密の場所へ運び、そこで我らの命を奪うことに決めていたが、その魔の手より逃れるためゼウスから与えられた手段は次のとおりであった。
キリシタンの一人に異教徒の甥を持つ者がおり、その甥は明智から大層寵愛されていた。彼は我らを助けるよう甥に書状を出した。その甥は安土山に残っていたヴィセンテ修道士と共に尽力し、この島まで我らを迎えに来る船を出した。我らがその船を見たときにどれほど喜んだことか。
海賊らはやむを得ず我らを船で来た人々に引き渡して奪った物も返却し、我らは隠した物も回収し再び手にすることができた。
我らが迎えに来た若者と共に明智の拠点である坂本に着くと、この小姓である若者は明智の伝言を携えてジュスト(高山右近)の許に行き味方になるよう請うことになったが、オルガンティーノ師もまたポルトガル語で書状をしたため、たとえ我ら全員が十字架に架けられようと決してこの暴君と手を結ばないよう、そうすることが我らの主のためであると伝えた。
オルガンティーノ師が明智の一子を訪ねるために城へ赴いたところ、この息子は、街道を全て占領しているため、希望があれば彼の守役を都まで我らに同行させると言ったが、司祭は書状のみで充分であるといい、それを預かった。これは我らの役に立った。というのは、司祭が二十名を先に行かせた際、彼らは道中で捕らえられたが、その書状を見せると通行を許されたからである。
明智の小姓と共に都に着くと、我らは彼の善行に感謝し、オルガンティーノ師は彼にポルトガルの帽子一つを贈った。
都の司祭や修道士たちは我らが皆死んだものと考えていたので、彼らの喜びは大変なものであった。また、明智がここから一里の所に居たにもかかわらず我らのことを知らなかったのはゼウスの思し召しであり、明智はキリシタンの諸侯、とりわけジュスト(高山右近)が敵であることを知っていたが、ゼウスは我らを陰謀から救ってくれた。
再び事件の流れに話を戻すが、司祭たちが出立した直後に明智は安土山に到着するも、皆逃げ去っていたので抵抗には遭わなかった。こうして信長の城を占領して、城の最も高い所に登って、日本中の宝が集められていた信長の蔵を開け、それを家臣達に分け与えた。
都には禅宗の五僧院があり五山と呼ばれているが、信長の葬儀を盛大に行うためにこの僧院に莫大な金を贈った。また、都にいる彼の友人や住民にも黄金や価値ある品々を贈り、貧者や見知らぬ人々にも分け与えた。
彼は町のどこにも火を放たなかったが、二、三日後、重臣を一人残して、予想される戦のために都と接する河内国と摂津国へ引き返した。この頃安土では略奪が行なわれ、家々は荒らされ路上では追剥が横行し、これは安土だけではなく堺から美濃国、尾張国でも同様で、ここかしこで殺人が行なわれた。甚大な荒廃をもたらすため地獄が出現したと思われたほどであり、わずか一人の人間の死によって諸国がこれほど混乱するとは尋常ならぬことである。
我らもこれらの苦難から逃れることはできず、我が安土の修道院と神学校は新築工事中であったが、ここに兵士たちが乱入して略奪を始め、修道士や使用人たちが都に逃れるときにも略奪被害に遭った。
修道院は信長の城の下にあって最も安全と思われていたので、イエズス会が所有する家財や装飾品の大半を保管していたが、前述のとおりビロード及び銀製の祭壇飾りを除いて、その他の物品は建物の建材まで含め一切の物が奪われた。
穴山梅雪・織田(津田)信澄の最期
この時、三七殿(信孝)と称する信長の第三子が己が兵と共に堺に居り、四国を占領しに行くため準備をしていたが、父と兄の死を知ると直ちに引き返して報復の準備を始めた。
まず最初に織田七兵衛殿(津田信澄)と称する彼の従兄弟を殺した。彼は信長が父の跡を継ぐために殺した兄(弟の誤り)の一子であった。この青年は信長に父を殺され、また明智の一女と結婚していたので彼が義父と共に信長殺害を企てたと誰もが考えていた。
その時彼は信長の命によって丹羽五郎左衛門(長秀)という武将と共に堺から三里の所にある大坂の城を守っていた。堺を見物に行った大身二人、一人は信長の義兄弟で三河の国主(家康)であり、もう一人は穴山(梅雪)殿と称したが、知らせに接するとその日のうちに急いで自国へ向け出発した。
三河の国主は多数の兵と賄賂とするための黄金を持っていたので何とか逃れることができた。穴山殿はやや出遅れたようであり兵も少なかったため、途中で略奪に遭い財物を全て奪われ兵もことごとく殺され、彼は辛うじて逃れた。
この穴山殿はかつて信長とその息子が占領した甲斐国の領主であり、ヴィセンテ修道士が我らに通信してきたところによれば、このたびの事件が起きる前、彼はゼウスのことについて良い評判に接したため説教を聴き始めており、好機の到来を望んでいたが、後になって彼もまたその途上で命を落としたのである。
話を戻すと、まだ乗船していなかった三七殿は知らせを受けると二時間後には明智と一戦を交える覚悟で出発しようとしたが、彼の兵は各地からの寄せ集めであったため、謀反を知るとたちまち大半の兵が彼を見捨てた。
彼はこれに当惑し、目的を達することはできぬと考え彼の従兄弟の七兵衛殿(信澄)がいる大坂へ向かった。この人は信長の殺害に同意していたと言われていたが、彼と共にいた五郎左衛門(丹羽長秀)と称する武将はこの信長の息子(信孝)と非常に親しかった。
そして城の中に居た七兵衛殿は三七殿を入城させまいとしていたので、三七殿は五郎左衛門と幾度も通信し、その助けを借りて大坂に入った。七兵衛殿は三七殿を非常に恐れていたので、彼が兵を率いて入城することを決して許さず、兵は町に留めおいた。
三七殿は同所に二日滞在した後、五郎左衛門と協議し、警戒して塔の最上階から決して下りぬ七兵衛殿を殺す手立てを考えた。彼らの策略とは、五郎左衛門が乗船するかのように三七殿と共に舟へ向かい、三七殿の兵と五郎左衛門の兵の間で偽りの諍いを起こすことであった。
七兵衛殿は警戒し城から出なかったので、示し合わせたとおり偽りの争いで五郎左衛門の兵が負けたふりをして城内に逃げ込み、これに続いて三七殿の兵も城内に侵入した。そして両者の兵は一緒になって七兵衛殿の兵を倒していった。塔内にいた七兵衛殿は自害したとも、殺されたともいわれている。
三七殿の評価は上がり、河内の諸侯達が彼の元に集まってきて主君と仰いだ。そして三七殿は七兵衛殿の首を堺で晒した。
山崎の戦い
明智が信長を殺した時、都に接する摂津の国の主だった武将たちは毛利との戦に出かけ留守だったにもかかわらず、その諸城を明智がただちに占領しなかったのは失策であり自らの滅亡の原因となった。それらの城は信長の命によって破壊され兵もいなかったので、五百名位でも諸城を占領し人質を取ることは可能であった。
これはキリシタンが支配する高槻の城も同じであった。というのも、ジュスト殿(高山右近)は毛利との戦に出かけており、二人の子を抱えた彼の妻は頼る先もない状態だったからである。
明智は、ジュスト殿は戻ってくれば必ず自分に味方するだろうと思い違いをしていたので、ジュストの許にに人を遣わし、心配することはないので高槻の城は彼に味方するようにと伝えたが、この時高槻の家臣達は話を合わせて偽りの回答をした。それで明智は納得したので、人質として子を要求することも、同じ目的で我らを利用することもなかった。
その後ジュストが己の敵と判った後も、それを実行することはできたが信長が荒木のときにとったような行動には出なかった。司祭や修道士たちが明智に人質として取られることは当地のキリシタン一同にとって恐れられることであったが、我らの主なるゼウスが暴君を盲目にした。
オルガンティーノ師はジュストに書状をしたため、彼が戦から戻った後、ゼウスの為になお一層の善行と奉仕を行い、たとえ明智が我らをことごとく十字架に架けるとしても、我らのことは一切気に留めぬよう伝えた。
毛利の征服者、羽柴(秀吉)殿の陣中においても信長の死が伝えられるやいなや、毛利がそれを知るよりも早く己に有利な和睦を結んだ。武将たちは即刻各自の城へ急いで戻り、羽柴殿自身も明智と一戦交える準備をした。
ジュスト右近殿は、徳、身分、武勇、その他一切のことにおいて都地方の全キリシタンの中心をなす柱であり、彼もまた急遽出発したものの、到着する頃には高槻の城と自領は全て敵の手に落ちているであろうと心配していたが、我らの主の恵みにより城は守られていた。すなわち、他の異教徒の諸城では領主が帰らぬ間にその家臣や農民が略奪を働いたが、高槻の城では決してそんな事は起こらなかった。
ジュストが高槻に帰還するとキリシタンたちは皆生き返ったかのように見え、直ちに彼は自ら明智の敵であることを公言し、迅速に準備をして信長の第三子三七殿及び羽柴殿と手を結んだ。
両人は信長殺害に対して復讐することで意見を一致させており、なるだけ優れた軍勢で明智に立ち向かうことを決したが、当地方の主だったキリシタン宗団がある河内と摂津の国の武将達はことごとく彼らに加わった。ただし三箇(頼照)殿は明智が河内国の半分と黄金を積んだ馬一頭を約束していたので彼の側に立った。
羽柴殿は強大なる力を有し、多くの国を有しているため諸人から恐れられているが、三七殿を大層重く見ており、庶民は彼が三七殿を父に代わる主君として擁立するであろうと考えるほどであった。我らはどうなるか分からぬし、彼が自ら王国の主と成り得るにもかかわらず他の者に譲るほどの謙虚さを持ち合わせているのかも分からない。
明智は安土山において信長から奪った莫大な財宝を思いのままに分配した後、引き返して都から一里離れた鳥羽という所に身を置き、都から三里の所にあって信長の義兄弟が将を務める勝竜寺と称する極めて重要な城を我が物とした。そしてそこで味方になる者を待っていたが、これは羽柴殿の出方を見定めるためでもあった。
彼は畿内でもっとも知略に優れ勇猛な武将であったにもかかわらず、甚だしい悪行を行ったためにたちまち分別を失い、幾度か好機を逃したことにより事態は徐々に悪化し、これが彼の滅亡の原因となった。
その時彼は八千乃至一万の兵を有していたが、摂津の国の軍勢が味方に付かないのを知って数カ所の城を包囲することとし、徐々に高槻に迫っていった。同国の主な三人の武将は、羽柴殿が迫ってきていることを期待して戦の準備を整え、兵を率いて高槻から三里の所にある山崎と称する大きな村へ出張った。
彼らが互いに取り交わした協定は、従前ジュストの大敵であった彼らの内の一人(中川清秀)がジュストと和睦して山の上を進み、池田殿(恒興)と称するもう一人は淀川に沿って兵を進め、ジュストはその中間の山崎の村に留まることであった。
ジュストが村に入り、明智が接近してきたことを知ると、彼はまだ三里以上後方にいた羽柴殿に伝令を飛ばし急ぐように伝え、彼はわずかな兵であったがいきり立つ家臣達を抑えていた。
ジュストは羽柴殿の軍勢が遅れることを知ったので、彼が自らのその危機を知らせに行こうとしたが、突然、明智の兵が村の門を叩いた。ジュストはゼウスを深く信じ、勇猛なので、一千にも満たぬ兵を率いて門を開き敵に襲い掛かった。
彼等キリシタンは勇敢に戦い一人の戦死者を出したのみであったが、最初の合戦で明智の身分の高い武士の首を二百以上取った。それ故明智の軍勢の士気が下がりはじめ、ジュストの最初の攻撃が終わるとジュストの両脇を進んだ他の二人の武将が到着し、明智の兵は逃げ始めた。
敵の士気を最も挫いたのは、三七殿と羽柴殿が同所から一里足らずの所に二万を超える兵を率いてきていることを知ったことであった。だが彼らは疲れていたためジュストの所に到着することはできなかった。これはゼウスの思し召しによるもので、このためジュストが大きな名声を得ることとなった。
彼は美濃以来、戦において常に幸運な勝利を収め、その勇気と高貴な気質により諸人から大いに尊敬されてきた。この勝利は明智の滅亡の主たる原因となった。三七殿はジュストがキリシタンであったからこのように首尾よくいったのだと語った程である。
明智の兵は急いで逃亡し、都から敗戦の場所まで四里であったが、その途中に明智が占領していた城も安全ではなかったので多くの者は午後二時、都を通り越して逃げて行った。
逃げる者達は重荷となるので槍や鉄砲など武器をことごとく道に棄てていたが、我らは修道院からその逃げるさまを見ており、彼らが通過するまで二時間以上を要した。多くの兵は都に入ろうとしたが、市の人々が入口で彼らの侵入を防いだので、明智の主たる城である坂本へ向かった。しかし村々から残党狩りが現れて馬や刀剣を奪うために彼らを襲ったので、多くの者は城に辿り着くことができなかった。
午後明智は、幾らかの兵と共に勝竜寺の城に入ったという。すぐに彼に続いて全軍がやってきて、彼はここで夜を迎えた。城の外の兵はここ都まで聞こえるほど終夜に渡って銃を撃ち、警戒のため城の周囲で火を付けたが、包囲する側もことごとく疲れ切っており、城の兵も講和を結ぶためジュスト殿やその他の武将に呼びかけた。
夜が明けると城は明け渡されたが、明智は宵のうちに城を出て坂本へ向かった。単身に近く、人の言によれば幾らかの傷を負っており、坂本に着くことはできず行方は分からなくなった。
翌日は斬首が激しく行われ、信長が殺された場所に最初千を超す首が運ばれた。取った首級は全て同所へ持って行くよう命じられていたからであり、首級は信長の供養のために並べられた。
この供養は暑いさなかに行なわれたのでひどい悪臭を放ち、信長の傲慢さに相応しかった。あまりに悪臭を放つため、そちらから風が吹いてくるときには窓を閉めなければ教会に居れないほどであった。
一人のキリシタンが我らに語ったことであるが、前日の戦に加わっていなかったある武将は首を持参するため、村々を廻り33名の住民がいた村で30名の首を斬り持参したという。
それから二日後、オルガンティーノ師と私が信長の殺された場所を通ったところ、数人があたかも羊か犬の首を運ぶかのように三十以上の首を数本の縄に吊って運んできたが、彼らは一片の感情も示さなかった。このようにして首が集められ、短時間でその数は二千を超えた。
憐れな明智は身を隠し、聞くところによれば、農夫たちに黄金の棒を与える代わりに坂本の城へ連れて行くよう頼んだが、彼らは刀と幾らかの黄金を奪うため槍で突いて彼を殺し首を斬ったとのことである。
彼らはその首を三七殿に敢えて差し出すことはしなかったが、他の者が献上した。そしてこの首にもっとも価値があったので、信長殺害の現場に遺体と首が運ばれた。日本全土を混乱に陥れた者はかくのごとく憐れな最期を迎えた。
ゼウスはその恐るべき反逆の後、彼が十二日以上生き延びることを許さず、貧しく卑しい農夫の手にかかって屈辱的な死を迎えたので、己の名誉のために行う切腹する余裕すら彼にはなかった。三七殿はこの遺体と首を合わせ、市外で十字架に架けさせた。
安土山では明智の敗滅が伝わると、明智が同所においていた武将(明智秀満)はたちまち坂本へ退却した。あまりに急なことだったので安土山には放火しなかった。しかしゼウスは信長の栄誉の痕跡を断つため、敵がそのままにした壮大な建物が残ることを許さなかった。
付近にいた信長の一子(信雄)が浅知恵に動かされ、理由は分からないが城の最上階の主な部屋に火をかけ、町も焼き払われた。これは瞬く間の出来事であった。
安土山を逃れた明智の武将(秀満)は明智の妻子及び親族がいる坂本の城に入った。その後すぐに羽柴殿の軍勢が取り囲んだ。その城は安土の城を除けば畿内でもっとも素晴らしいものであったが、すでに多くの兵は逃走していた。
そしてその武将は他の武士たちと共に迫りくる軍勢を見、ジュストが先鋒で攻め込んできたのを知ると、「高山右近殿、ここに来られよ」と呼びかけ、多数の黄金を窓から湖に向かって投げ始めた。
その後彼らは一番高い塔に入り、敵の手には掛からぬと言い、まず女性と子供をことごとく殺し、続いて塔に火を放って彼らも切腹した。この時明智の二子も死んだと言われるが、彼らはヨーロッパの貴人のような優美な人たちであり、長男は十三歳であった。両人は逃げたという人もいるが、今日まで現れないので死んだと思われる。
この騒乱の中での高槻の城から美濃まで、貴族その他の人々の死については語り尽くせない。敵である故に殺される者もあれば、家財を盗むために殺される者もあり、その数の多いことは、ジョセフ師が堺から来た日に五百以上の死体が川を流れるのを目撃したほどであった。これは主戦があった五日後のことであった。
軍勢は直ちに安土に進み、そこから美濃、尾張へと向かった。明智に加担した者は一人として生かさず、聞くところによればこのわずかな日数で死者は一万人を超えたとのことである。我らが不安、苦痛を感じたのは、坂本が落城するとただちに二、三人の武将が三箇に派遣され、その内の一人は三箇(頼照)殿の主たる敵であって、三箇殿父子の首級を取ってきた者には褒美を与えると約束していたことである。
彼ら父子は夜間に妻子を伴って逃れたが、多くの女子供の悲惨な姿を見るのはまことに悲痛であった。異教徒たちは三箇に火を放ち、キリシタンが教会に放火しないように頼んだが、彼らはこの都を除けば最良の教会を多数の装飾品と共に焼き払った。
三箇のみならず近隣のキリシタンたちは三箇を最も安全な場所と考えていたので、同地に運び込んであった多数の家財を失いひどく困窮した。三箇殿とその子は逃亡したが、おそらく逃げ延びることはできないだろう。彼らにゼウスの慈悲を賜らんことを。
しかしゼウスは同地のキリシタン教会を滅ぶことはさせなかった。というのは、三箇の所領が結城ジョアン殿に与えられたからであり、彼の徳と慈悲によって三ヶの生き残ったキリシタンは再び集うことができるだろう。
岐阜では信長の死が伝わるとたちまち世子の宮殿が略奪を受け、ある武将が城を占拠したが、いずれの側に味方するでもなかった。この武将は法華宗徒でありキリシタンの教えを憎んでいたので、彼は直ちに我らの教会と修道院を家臣の一人に与え、同人は木材を利用するため早速教会と修道院を解体した。
伝え聞いたところによると、今から五、六日後に信長の葬儀を行うため武将たちが皆この都に参集するとのことである。誰が殿様となり天下の主となるかは未だ確定していないが、少なくとも死んだ世子の一歳位の一子(三法師)が長じるまでの間は三七殿が代りを務めるだろうと言っている。しかし諸国の領地を分配する際に紛糾するに違いないので、簡単に決着するとは思われない。
人間的に言えば三七殿が政治を司るならば布教において多大な成果をおさめるだろう。なぜなら彼は以前から我らの親友であったが、ここ数カ月はロレンソ修道士が贈ったロザリオを腰に付けているからである。
彼はキリシタンではないが、なぜそれを付けているのか聞いたところ、彼はこのことが父の耳に届くようにするためであり、彼がキリシタンになったと考えて父が怒ればこれを否定し、構わぬ風であればその時こそは父を恐れることなくいつでもキリシタンとなる自由を得るだろうと答えた。
この出来事があったのは彼の立場がまだ低い時のことであり、今でこそ信長は彼に四国を取らせるため金銭と兵を与えていたが、当時は僅かな収入しか与えていなかったからである。
今や彼(信孝)はほとんど天下の主となっており、これからどうなるのか、父と同じように傲慢となるのか我らには分からない。もし傲慢になったならば、ゼウスの裁きにより父と同じ運命を辿るだろう。
ゼウスは彼が築き上げたものの記憶が残らないよう一切を焼き払わせた。奇しくも安土山は自らの子によって焼かれ、内裏の御子を住まわせるため彼が建てた邸は彼の世子(信忠)が逃げ込んだため焼かれたのである。
更に彼が所有する安土山の蔵と財産は驚嘆すべきものであり、金銀坐財宝が納めてあったが、更に信長の名声を高めるものがあった。それは茶の湯の道具で、日本人が言うにはその値は計り知れなかった。というのも、信長は生来、欲深く物を惜しむ人であったので、誰かが道具を持っていると聞けば人を遣わしてこれを求め、断ることは不可能であったからである。
それ故、このような道具を所有している人々は、免れることはできぬと求められるより先に自ら献上することを考えたが、それは彼から多少なりとも恩寵を得るためであった。したがって、彼が茶の湯の道具を60以上持っていたというのは確かなことである。
これらが失われたのは、信長が都に来た時、三河の国主やその他の諸侯に見せるためにほとんどの道具を携えて来ていたからである。彼が燃え尽きたと同様、これらの道具も一つ残らず彼と共に灰となった。ここ都の人々は日本の宝が失われたと言っているが、これを喜ぶ者も少なくない。というのは、彼らの言によればその富が日本を荒廃させていたからである。
結局、地上のみならず天においても己に勝る主はいないと考えた者はこのように悲惨な最期を遂げ、明智もまた彼に劣らず傲慢であったために同じく惨めな死に方をした。
しかし信長が稀有な才能を持ち賢明に天下を治めたことは否めないし、彼の傲慢さが身を滅ぼしたこともしかりである。彼の記憶は騒乱と共に消え去り、地下の奥底に沈んだ。
(1582年11月5日付ルイス・フロイス書簡)
【主要参考文献】
国立国会図書館デジタルコレクション
『『イエズス会日本年報 (新異国叢書)』(村上直次郎訳, 柳谷武夫編:雄松堂書店)
『:同朋舎)



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