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戦国武将スター軍団集合!~「信長の野望」最後の戦い?

 戦国時代の終盤、豊臣秀吉による天下統一の過程では、名だたる武将が秀吉の配下に組み込まれ共に戦っています。

 まるで「信長の野望」の最終戦?のような圧倒的陣営で行われた戦いの主な参戦者について紹介します(>_<)

秀吉の九州平定

 まずは九州平定です。島津兄弟も初戦は長宗我部信親を討ち取るなど意地を見せましたが、圧倒的豊臣軍の前に成すすべはありませんでした・・・

島津軍

島津義久、義弘、家久、歳久

豊臣軍

豊臣秀吉、豊臣秀長、豊臣秀次、仙石秀久、長宗我部元親・信親父子、十河存保、前野長康、中川秀政、福島正則、細川忠興、丹羽長重、生駒親正、池田輝政、堀秀政、蒲生氏郷、前田利家、豊臣秀勝、藤堂高虎、黒田孝高、蜂須賀家政、小早川隆景、吉川元春・元長父子、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川秀秋、大友義統、脇坂安治、加藤清正小西行長、加藤嘉明、九鬼嘉隆、鍋島直茂、本願寺顕如、立花宗茂

仙石秀久~改易からの復活と仙石家のその後~仙石騒動とは?
仙石秀久は豊臣政権下の大名で、失敗により一度改易されたものの見事に復活を成し遂げた男です。その生涯と、子孫が江戸時代後期に起こした「江戸時代の三代御家騒動」の一つに数えられる仙石騒動について紹介します。



肥後国衆一揆

 九州平定後に佐々成政が肥後一国を与えられましたが、成政の性急な検地等を原因として肥後の国人たちが反乱を起こしました。いわゆる「肥後国衆(国人)一揆」です。

それでは陣営を見てみましょう。

肥後の国人(一揆軍)

隈部親永・親泰父子、甲斐親英、和仁親実

豊臣軍(鎮圧軍)

佐々成政、鍋島直茂、安国寺恵瓊、立花宗茂、小早川秀包、浅野長政、加藤清正小西行長、黒田孝高、蜂須賀家政、福島正則

戦いの結果

 天正15年(1587)7月に発生した一揆でしたが、さすがにこの面々にはかないません。同年12月までに国人たちはことごとく討ち取られ平定されています。なお、この一揆の責任を取らされて佐々成政は切腹させられてしまいました(´Д⊂ヽ

佐々成政のさらさら越えと黒百合伝説
佐々成政が厳寒期に立山(北アルプス)を越えたいわゆる「さらさら越え」と、愛妾を斬殺した黒百合伝説について紹介します。

小田原征伐

 続いては秀吉の小田原征伐戦です。

北条軍

北条氏直、北条氏政、北条氏照、松田憲秀、北条氏規、大道寺政繁、北条氏邦

豊臣軍

豊臣秀吉、徳川家康、織田信雄(信長次男)、織田信包(信長弟)、蒲生氏郷、黒田孝高、豊臣秀次(秀吉甥)、豊臣秀勝(秀吉甥)、宇喜多秀家、細川忠興、小早川隆景、吉川広家、宮部継潤、堀秀政、池田輝政、浅野長政、石田三成、長束正家、立花宗茂、大谷吉継、石川数正、増田長盛、高山右近、筒井定次、蜂須賀家政、大友義統、福島正則、丹羽長重、金森長近、長宗我部元親、加藤嘉明、九鬼嘉隆、脇坂安治、前田利家、上杉景勝、真田昌幸、小笠原貞慶、佐竹義宣、佐竹義重、宇都宮国綱、結城晴朝、多賀谷重経、里見義康ほか

石垣山一夜城

 

石垣山一夜城

 

北条家滅亡への道〜なぜ秀吉に従わなかったのか?
天正元年(1590)、関東の雄であった北条家は豊臣秀吉による小田原征伐によって滅びました。豊臣家と圧倒的な勢力差がありながら、なぜ北条家は戦う道を選んだのでしょうか。

ちなみに、映画「のぼうの城」で有名な忍城での戦いを抜粋すると、

忍城籠城軍

成田長親、甲斐姫

豊臣軍

石田三成、大谷吉継、長束正家、鈴木重朝、佐竹義宣、宇都宮国綱、結城晴朝、浅野長政、直江兼続、真田昌幸・信幸・信繁父子

戦いの結果

   北条家の支城はことごとく攻め落とされましたが、忍城については城主不在にもかかわらず頑強に抵抗し、北条家が降伏するまで持ちこたえています。

小田原北条家臣のその後~徳川家に仕えた北条遺臣と子孫たち
豊臣秀吉の小田原征伐により小田原北条家は滅びましたが、その後徳川家臣となって存続した主な北条一族、北条遺臣(旧臣)と子孫たちについて紹介します。



島原・天草の乱

 秀吉の戦ではありませんが、ついでに島原・天草の乱の主な参陣者も紹介します。

一揆軍

天草四郎時貞、有馬・小西浪人

幕府軍

松平信綱、板倉重昌、立花宗茂、細川忠利、鍋島勝茂、松倉勝家、寺沢堅高、黒田忠之、有馬直純、水野勝成

   乱は寛永14年(1637)に起こっていますので、天正14年(1586)から翌年にかけて行われた九州平定から50年経っており世代交代が進んでいますが、立花宗茂が参戦しているのは興味深いですね。

明智光秀の孫三宅藤兵衛と島原・天草の乱
三宅藤兵衛重利は明智光秀の従兄弟といわれる明智秀満の子で母は明智光秀の娘とも伝わります。寺沢家に仕え天草の富岡城代を務めていましたが・・・
戦国の女城主4~立花誾千代
立花誾千代(たちばなぎんちよ)は、有名な立花道雪の一人娘であり立花宗茂を婿に迎えた女性ですが、幼くして立花山城の主となっています。



曽呂利新左衛門と豊臣秀吉~世相を表す頓智の逸話
曽呂利(曾呂利)新左衛門は、豊臣秀吉の腰巾着で滑稽酒楽の奇人といわれています。その氏素性や更には実在したかどうかまで諸説ありますが、歌や俳句、茶の湯にも造詣が深い多才な人物であったといわれます。
戦国武将の男色事情~信玄の恋文と・・・
戦国大名は正室のほかに多くの側室を持ち世継をえて家を繁栄させようとしましたが、同時に男色も盛んで若い美男子を側近くに揃えていました。甲斐の武田信玄も有名で、しかも春日源助という若い家臣(後の高坂弾正昌信)に宛てたラブレターが残っていますので紹介します。森蘭丸との意外な関係も・・・