仙石秀久の生涯
美濃の小豪族の子から大名へ
仙石秀久は天文21年(1552)、美濃国の土豪仙石久盛の四男として生まれました。
秀久は四男であったため他家に養子にいきますが、当時仕えていた斎藤家と織田家の戦いで兄たちが戦死してしまいます。
そのため秀久が養子先より戻って仙石家の家督を継ぎ、斎藤家が信長から稲葉山城を追われた後は織田家に仕えることになります。
永禄10年(1567)からは羽柴秀吉に仕え、天正2年(1574)に姉川の戦いの戦功により1000石を与えられるのです。
さらに中国攻略の戦功により天正6年(1578)に4000石の加増を受けるなど出世を重ね、天正11年(1583)にはついに、淡路平定の戦功により洲本城を居城とする淡路国5万石の大名となったのでした。
更に、四国攻めの論功行賞により讃岐一国(十河領2万石を除く)の大名となり、高松城に入城しました。
九州征伐と秀久の転落
九州征伐が始まると長宗我部元親・長宗我部信親・十河存保ら四国勢の軍監として九州に上陸します。
ここで順調だった秀久の人生が転落することとなります。秀吉からは豊臣本隊の到着まで戦を起こさぬように指示されていましたが、功を焦ったのか島津軍と衝突し大敗を喫してしまうのです(戸次川の戦い)。
この戦いで長宗我部信親と十河存保は戦死し、秀久はあろうことか戦場を離脱し讃岐へ逃げ帰ります(´Д⊂ヽ
さすがに秀吉も激怒し、秀久は所領没収の上高野山への追放処分となりました。
復活して大名へ
その後の数年の間、浪人生活を送りますが天正18年(1590)の小田原攻めの際、徳川家康の軍に陣借りして戦功を挙げます。このことで秀吉の許しを得た秀久は小諸5万石の大名に復帰することになります。
元の石高の半分ではありますが、秀吉時代に一度改易された大名がまた大名として復帰した例はほとんどありません(織田信雄など元の石高から激減した例はありますが・・)。
関ヶ原の戦いでは徳川方へ付き、秀忠軍に加わります。結果、真田昌幸の善戦によって秀忠軍は関ヶ原本戦に遅参することになりますが、秀忠を家康にとり成したことで、秀忠から深く信頼されるようになったそうです。
秀久が江戸に参府する際は妻子同伴が許され、幕府の上使が板橋宿まで迎えに来ていたといわれており、外様の小大名としてはかなりの好待遇を幕府より受けていたことがうかがえます。
慶長19年(1614)、江戸からの帰りに発病し63歳の生涯を終えました。
もしも秀久が戸次川の戦いでの失敗が無く順調に秀吉政権下で出世していれば、おそらく秀吉死去時点で20万石ほどの大名になっていたと思われます。しかし、関ヶ原の戦いで西軍について領地没収となっていたかもしれません。
同じ秀吉子飼いの加藤家、福島家らが江戸時代初期に改易になっている中、秀久が家康・秀忠からも信頼され、仙石家を残したことは何か天下人に好かれる彼の魅力があったのではないでしょうか。
秀久の子孫~仙石家のその後
秀久死後は三男の忠政が家督を継ぎ(長男の久忠は失明して廃嫡、次男の秀範は関ヶ原で西軍についたため勘当)、小諸藩5万石の藩主となります。
忠政は大坂の陣の戦功により上田藩に6万石で加増転封されました。現在の上田城の大部分が忠政の時代に築かれたものです(江戸初期に真田家は松代へ移封されています)。
3代政俊は弟政勝に2000石を分知したため、上田藩は5万8000石となります。その後、4代政明の時に但馬出石藩5万8000石へ移封されました。
仙石騒動
そして江戸時代後期には「江戸時代の三代御家騒動」の一つに挙げられる仙石騒動が起こります。
当時、出石藩は財政政策をめぐって仙石左京派と仙石造酒派が対立していました。両者とも藩祖秀久の長男久忠の子孫にあたる藩内の名門でした。
文政7年(1824)、藩主仙石政美が参勤交代の途中発病して亡くなります。政美には子がなかったため、政美の後継は江戸藩邸での話し合いの結果、弟の久利となりました。
この話し合いの場に左京が息子の小太郎を同席させていました。このことを左京が自分の子を後継に考えていると疑った造酒とますます溝が深まります。
その後も藩内での対立は続き最終的に幕閣を巻き込んでの裁定となり左京は死罪、出石藩は3万石に減封となりました。
久利は戊辰戦争では官軍につき明治維新を迎え、最後の藩主政固は子爵となっています。




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