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前田慶次の晩年~米沢での生活はどうだった?

傾奇者前田慶次

 前田慶次は加賀百万石の祖前田利家の甥にあたり、文武両道に優れた人物だったといわれています。漫画「花の慶次」の主人公としても有名ですね。

 また、近年には藤竜也さん主演のNHKドラマ「かぶき者 慶次」が放送されています。ドラマ自体は完全なフィクションですが、ところどころに実際に伝わっている慶次の逸話が盛り込まれていました(*^^*)

 ここでは、関ヶ原の戦い後から晩年まで慶次が東北の米沢でどのような生活を送っていたのかを紹介します。

米沢での前田慶次

 慶長6年(1601)8月16日、慶次が仕えていた上杉家は、関ヶ原の戦いで西軍が敗れたため、徳川家康から会津120万石から米沢30万石への移封を命じられました。上杉景勝、直江兼続は10月15日に京を出発し、米沢に向かいました。そして慶次は10月24日に京を旅立ちます。

 慶次は全国にその武名が知れ渡っており、他藩から7000石や10000石の高禄での仕官の誘いがあったといわれています。しかし、慶次は「天下に私の主は上杉景勝のほかにはない」と断ったといいます。

 米沢藩では客分扱いで、知行は2000石、500石、200石と諸説あります。

 米沢に転封前の会津時代の禄高は、市立米沢図書館所蔵の『上杉侯家士分限簿』に前田慶次組外之衆千石と記載があります。当然、米沢時代は減らされているため、500石くらいが妥当ではないかと思います。

 米沢での慶次は、堂森(米沢市万世町堂森)にあった「無苦庵」と呼ばれる屋敷で隠棲生活を送ることになります。この堂森の地には、前田慶次に関する伝承が多く残っているのです。

 堂森善光寺内には、「前田慶次供養塔」が建立されており、毎年6月に供養祭が行われています。また、慶次が地元の住民と力比べをした時に使用した「慶次の力石」とよばれる石が伝わっています。

 慶次が堂森で製作したと伝わる能面が残されていることからも、教養の高さがわかりますね。

 また、慶次は直江兼続などと共に、頻繁に連歌会を開いています。

 慶次は漫画「花の慶次」の影響もあってか、身長2m近い大男のイメージが広まっていますが、現存している慶次所有と伝わる甲冑は、一般の武将のものとあまり大きさは変わりません。

 平成27年(2015)、米沢市教育委員会による「無苦庵跡」の発掘調査が米沢市万世町堂森で実施されました。発掘調査の結果、塀か柵が存在したと推定される50基もの柱穴や、周囲から土塁跡や堀跡とみられる遺構が見つかっています。市教育委員会によると、堀跡などを基に敷地は東西109メートル、南北72メートルと推定されています。

 慶次は、慶長17年(1612)6月4日、堂森で亡くなったといわれています。

 『米沢古誌類纂』には、「前田慶次郎利貞(一本利太)墓(慶長中千石)堂森善光寺にあり・・・慶長十七年六月四日堂森に死す」と記されています。

前田慶次の子孫

 慶次の妻は、養父前田利久の弟安勝(利家の兄にあたる)の娘です。二人の間には嫡男正虎と五人の娘がいたとされています。正虎は慶次に付いて米沢には行っておらず、加賀藩で前田利長(利家の長男)に仕えました。残念ながら、正虎には子供がおらず、慶次の男系子孫は絶えたとされています。

 娘の一人は、北条氏邦の四男庄三郎に嫁いでいます。なぜ、氏邦の息子?といいますと、、氏邦は小田原征伐後、自身の居城(鉢形城)攻めの大将であった前田利家に預けられ、その後家臣となっていたのです。

 慶次の実家である滝川一族と北条家は本能寺の変後に戦っており、その北条家の一族と娘が結婚したのは何か不思議な感じがしますね(*^^*)

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