家康の逆恨み?
天正9年(1581)、家康が武田方の高天神城を攻略した際、敵方の武将のうち、孕石主水(元泰)という武将だけ切腹させています。
逸話では、主水は家康の今川人質時代に、家康の屋敷の隣に住んでいたそうです。
人質といっても監禁されていたわけでなく、今川家からは大事に扱われており、家康は趣味の鷹狩りも楽しんでいました。
この鷹が主水邸によく糞を落としていたため、主水は「三河の小倅が」と度々家康に文句を言っていたそうです。
家康はこのことを恨みに思い、主水を切腹させたともいわれますが・・・逆恨みではないでしょうか(*_*)
なお、家康の逆恨みに対して、主水の切腹の様は見事であったといわれています。
家康幼少期のエピソード
ついでに家康の今川人質時代の別のエピソードを紹介します。
10歳の時に今川義元の元で行われた新年の祝宴に参列しましたが、家康の顔を知る者がほとんどおらず、どこの子だろうかと話になり家康を知る者が「松平清康の孫」と話すも、誰も信じる者はいなかったとか。
すると家康は黙って縁側まで進むと、袴を捲りあげ勢いよく小便をし、素知らぬ顔で席に戻りました。居並ぶ人々は、さすがは清康の孫だとその度胸に驚いたそうです。(家康神格化のための逸話と思われますが(*_*;)

家康と北条氏規
主水とは別隣に住んでいたのが北条氏からの人質であった北条氏規でしたが、氏規と家康は境遇も年齢も近かったことから仲は良く、人質時代が終わった後も親交が続いています。
氏規は豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏が降伏した後に高野山で蟄居し、その後許され、子孫は江戸時代狭山藩主として明治まで続いています。

孕石主水の子孫は・・
孕石主水の子元成は、武田家滅亡後、秀吉の小田原征伐時に同じ武田遺臣であった板垣正信(板垣退助の先祖)とともに陣借りし戦功を挙げて山内一豊に召し抱えられ、子孫は土佐山内家の重臣として家老や中老を輩出しています。






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