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清水宗治の子孫清水親知~幕末の奔走と切腹

 羽柴秀吉による毛利攻めで、備中高松城において城兵の命と引き換えに切腹した清水宗治はよく知られた武将ですね。

 今回は宗治の子孫について、幕末に長州藩家老として活躍した清水親知(ちかとも)を中心に紹介します。

清水宗治の子孫

 宗治の死後は息子の景治が跡を継ぎます。後に秀吉が宗治の最期を憐み、景治を直臣に取り立てようとするも、景治は「二君に仕えず」と断ったと伝わります。

 景治は朝鮮出兵でも活躍したほか、関ヶ原の敗戦による領地の大削減で財政難に陥った毛利家中で財政再建に尽くすなど活躍し、清水家は代々長州藩寄組(毛利一門につぐ重臣家)として3700石の知行を受け幕末まで続きます。

幕末の当主~清水親知

京都での活躍

 親知(初めは清水清太郎知周(ともかね))は、天保14年(1843)に清水家の一族(宗治と共に切腹した兄月清の子孫家)に生まれ、後に男児のなかった本家の11代清水親春の養子に迎えられます。

 若い頃は江戸で尊王攘夷派の大橋訥庵に師事していましたが、訥庵が坂下門外の変に関係して罪に問われると、藩命により帰郷しています。

 その後、文久3年(1863)に藩命により京都で学習院御用掛となります。当時の学習院というのは朝廷と諸藩との交渉の場に当てられていたそうです。

 ここで親知は藩の朝廷に対する事務担当となり、若干20歳で加判役(家老格)として、朝廷、公家、諸藩のほか、真木和泉ら尊王攘夷派の志士の間を奔走したのです(藩主毛利敬親から一字与えられ知周から親知に変えています)。

宗治墓の参拝

 元治元年(1864)に藩命で、鳥取・広島に40名の従者らを連れて使者に立った際、通りかかった石見において「長州藩が鳥取藩と共に出雲に攻めてくる」との流言が流れ、幕府銀山代官にも疑われる騒動になった際は、民を集めて兵器を持っていないことを説明して、民が幕府代官に説明して事なきを得たそうです。

 無事に使者の役を果たした帰りには備中高松へ立ち寄り、祖先宗治の墓に参拝しています。その際集まった土地の古老たちは、宗治の子孫の参拝に涙を流したといわれています。

親知の切腹

 元治元年の「禁門の変」後、藩の中心で活躍していた親知はいやおうなしに藩内の抗争に巻き込まれていくことになります。

 幕府に対して武備恭順を主張する親知ら正義派と、無条件恭順を主張する椋梨藤太ら俗論派に藩論が割れ内憂外患の状況に陥ったのです。

 親知は周布政之助や井上聞多と行動を共にしますが、聞多が襲撃され重傷を負い、政之助が自刃して藩論は俗論派に決し、長州藩は征長軍に帰順、福原・益田・国司の三家老は切腹し、親知は自邸にて謹慎することとなります。

 そのような中、12月15日に正義派の高杉晋作らが功山寺で挙兵し萩に向かって進軍を開始すると、12月25日、俗論派により親知に切腹の藩命が下ります。

 親知は萩の自邸において身を清めて浄衣を着け、端座して「古道照顔色」の五字を書した後、弟と家臣に対して、
「死を惜しまずに国に尽くさなければ、我が弟でも家臣でもない」
と言い残し、朝廷及び藩主の方角を遥拝し従容として死に就いたそうです。わずか21歳でした。

辞世の句
「さらぬだに いとどさびしき夕暮れに 音さへしのぶ 春雨の空」

その後の清水家

 親知の死後、養父親春が再度家督を継ぎ、時勢により清水家も復権します。

 第二次長州征討戦では、親春が総督として第二奇兵隊を、清水家家老難波周政(清水宗治と共に舟中で切腹した難波伝兵衛の子孫)が野勇隊を率いて大島口の戦いで勝利を収めるなど活躍しています。

 明治24年になって幕末における親知の功績が認められ、親知に正四位が追贈され、更に明治33年には、維新時の親春の功により、親春の跡を継いだ婿養子の清水資治が男爵を叙爵しています。

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