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奇兵隊のその後~使い捨てられた兵士たちの悲劇~脱隊騒動

 長州の「奇兵隊」は高杉晋作が武士に限らず諸階層の人々を集めて作った部隊として有名ですね。奇兵隊など幕末に編成された長州藩の諸隊は幕府の長州征伐や戊辰戦争で活躍しましたが、その後どのような運命をたどったのでしょうか。

長州諸隊の解散

 戊辰戦争が終結すると、奇兵隊らの諸隊は一転して冷遇されます。

 明治2年(1869)11月、奇兵隊をはじめ長州藩の諸隊約5,000人は解散させられ、うち2,250人ほどが常備軍第1~4大隊として編成されることとなりました。

 諸藩に必要以上の兵を持たせたくない新政府首脳の意向と、長期の戦争により財政が悪化し不要となった兵を養う余裕はなかった藩の思惑が一致したことからの「リストラ」でした。

 戊辰戦争から帰藩してまだ論功行賞もなされていないまま兵の選別が行われていき、しかも常備軍に選ばれたのは武士階級にあった者ばかりで、奇兵隊に多かった庶民出身の兵達は何の補償もなく突然失職してしまうこととなったのです。

 元々奇兵隊などに加わっていた庶民は家の跡を継ぐ長男でなく、次男・三男などが多かったといいます。また、40歳以上の者や怪我人なども除隊とされたので、いきなり一般民に戻っても生計が立たない者が多かったのです。

 身分にとらわれない部隊として数年にわたり文字通り命懸けで戦ってきた奇兵隊の隊士達でしたが、結局は身分の壁に阻まれ使い捨てに・・・(奇兵隊軍監であった山県有朋などは政府の重職に就きますが・・・)。

 なお、解散の藩令は数回にわたって出され、諸隊のうち、奇兵隊、御楯隊、膺懲隊、遊撃隊、八幡隊の5隊は連名で藩主に対し解隊の撤回、恩賞の授与を求める嘆願書を出しますが、軍の再編成は粛々と進められたのでした。

諸隊の反乱~脱隊騒動

 明治2年(1869)12月1日、この仕打ちに激怒した奇兵隊等長州諸隊の一般兵士(下級武士や平民出身)1,200人が藩庁の置かれていた山口から脱走し反旗を翻します。いわゆる「脱隊騒動」です。

 山口から脱出した兵士たちは三田尻、宮市(現防府市)に屯集し本拠を構え、各地に檄を出し政治に不満を持つ寺社侍や陪臣を集めたほか、重税に苦しむ百姓にも蜂起を扇動します。

 藩庁側は、戊辰戦争の論功行賞や、傷病者、老年除隊者への扶助を約して事を収拾しようとしますが、膨れ上がった反乱軍の不満は収まらず、藩庁の倉庫から武器や食料を奪って飢餓に苦しむ民衆に支給したりと活動を活発にしていきます。

 一方の藩庁側は反乱軍の説得を続けながらも、萩にいる士族のみで編成された干城隊に出動を命じるなど常備軍の準備を進め、更に徳山・岩国・清末の支藩と連絡を取り武力討伐の計画を立てていきます。

 1月21日、藩庁側の行動に業を煮やした反乱軍は藩主父子が居る山口の藩庁を包囲します。藩庁への人の出入り、物資の運搬を一切封じた上で、常備軍の解散や戊辰戦争の恩賞を要求するなど、長州藩内各地で暴れまわったのです。

 乱を押さえきれない藩は、長州に呼び戻した木戸孝允(桂小五郎)に鎮圧の指揮を取らせます。

 2月7日、ついに藩庁の常備軍と反乱軍との戦端が開かれます。常備軍は長州各支藩の援兵も受け、元は仲間であったはずの部隊同士で戦闘が繰り広げられたのでした(1日で7万発の弾丸が消費されたとも)。

 結局、統制の取れていない反乱軍は各地で常備軍に敗れ、数日間の戦いにより鎮圧されます。2月から3月にかけて首謀者ら9名が切腹、84名が斬首となったほか、永牢、遠島など大量に処分され、一部の者達は他国へ逃亡しました。

 処刑された者は
足軽・中間  7人
陪臣    19人
社人     3人
僧侶     5人
百姓    26人
町人     3人
不明    31人
であったそうで、使い捨てられた諸隊兵の出自を表しているといえます。

 この騒動がその後の士族反乱の先駆けになったといわれています。

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