戦国時代、フランシスコ・ザビエルら宣教師の来日・布教により多くの武将もキリシタンとなっています。純粋な信仰心によるもののほか貿易の利益を目的としたものなどありますが、主なキリシタン大名・武将とそれぞれの晩年について紹介します。
高山友照(図書)
1563年受洗。洗礼名ダリオ。摂津高槻城主であり、天正6年(1578)に荒木村重とともに織田信長に反乱を起こしますが、村重が逃亡すると友照は捕縛され、息子高山右近らの助命嘆願により越前の柴田勝家に預けられました。
信長の死後は右近とともに行動し、文禄4年(1595)にキリシタンのまま京都で死去しています。
高山重友(右近)
1564年受洗。洗礼名ジュスト。父友照の跡を継ぎ摂津高槻城主となりますが、荒木村重の謀反に際しては父と異なり信長に降ってその後も信長に仕えます。
信長死後は秀吉の武将として各戦で活躍し播磨明石6万石の大名となりますが、秀吉のバテレン追放令でも棄教しなかったためその地位を追われることとなります。
その後は加賀の前田利家・利長の庇護下にありましたが、慶長19年(1614)、徳川家康によるキリシタン追放令を受けて、内藤如安らと共にマニラに追放されたのです。
マニラでは信仰を守った日本の諸侯が来るということで大歓迎を受けますが、体調を崩していた右近は到着からわずか40日後に死去します。スペイン総督の下、盛大な葬儀が執り行われました。
池田教正
1563年受洗。洗礼名シメアン。摂津の国人領主で三好三人衆らと争った後に信長に仕えます。信長の死後は豊臣秀次の与力となり、秀吉がバテレン追放令を出した後もキリシタンのまま秀次に仕えます。
秀次が秀吉により自決されられた後に殉死したといわれます。
内藤如安(忠俊)
1564年受洗。洗礼名ジョアン。松永久秀の甥として生まれ丹波の国人でしたが、足利義昭、小西行長に仕え、関ヶ原の戦い後は加賀前田家の庇護下に入ります。
慶長19年(1614)、徳川家康によるキリシタン追放令を受けて高山右近らと共にマニラに追放され、寛永3年(1626)に同所で死去しています。
大村純忠
1563年受洗。洗礼名バルトロメオ。日本初のキリシタン大名といわれ、肥前の大村領では領民のほとんどがキリシタンとなり、天正10年(1582)には甥の千々石ミゲルなどの天正遣欧少年使節を派遣しています。
天正15年(1587)の秀吉の九州平定時には子の喜前を派遣して秀吉に従属し大村家の存続に成功しますが、同年病により死去しています。
子の大村喜前もキリシタン(洗礼名ドン・サンチョ)でしたが、後に棄教し領内も禁制としています。大村家は肥前大村藩主として明治まで続いています。
小西行長
幼少期に受洗。洗礼名アグスチノ。豊臣政権下で頭角を現し肥後南半国20万石を治める敬虔なキリシタン大名でしたが、関ヶ原の戦いに敗れ刑死しています。
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一条兼定
1576年受洗。洗礼名パウロ。摂家一条家の一族である土佐一条家最後の当主です。母は豊後の戦国大名大友義鑑の娘で、自身も大友宗麟の娘を妻にしています。
天正2年(1574)には土佐統一を目指し勢力を広げてきた長宗我部元親に敗れ、豊後の大友家に身を寄せます。その後失地回復を目指しますが果たせないまま伊予(現愛媛県)の離島である戸島に隠棲し、天正13年(1585)に同所で死去したといわれています。
大友義鎮(宗麟)
1578年受洗。洗礼名フランシスコ。豊後の戦国大名で一時期北部九州6か国の守護を兼ねるほど勢力を誇りました。宗麟の印章はフランシスコから取った、「FRCO」のローマ字を組み合わせたものを使っています。
島津家や龍造寺家と九州の覇権を争った宗麟でしたが、次第に島津家の侵攻に押されて勢力を失っていき、なんとか秀吉に従属することで島津家に対抗しますが、秀吉の九州平定中の天正15年(1587)に病死します。
秀吉の九州平定後、宗麟の跡を継いだ息子の大友義統(吉統)が豊後一国を安堵され大友家の存続に成功したのですが、朝鮮出兵で失態をおかします。
明の大軍に囲まれ平壌城に籠城した小西行長から援軍を求められるも、義統は形勢不利として救出に向かわなかったとされたものです。話を聞いた秀吉は日本の恥辱と激怒して大友家は改易され、義統は佐竹家に預けられます。
ちなみに義統もキリシタン(洗礼名コンスタンチノ)でしたが、秀吉のバテレン追放令により棄教しています。
関ヶ原の戦いで義統は、旧領回復を目指して旧臣らを集めて豊後に進軍しますが、黒田如水らに敗れ、戦後は出羽の秋田家預かりとなり慶長10年(1605)に死去しています。
なお義統の嫡男義乗(妻は高橋紹運の娘)が常陸国などで3300石を与えられて徳川家に仕えていましたが、義乗の子義親(妻は今川氏真の孫)が子のないまま若死して無嗣断絶となります。
嫡流は断絶しますが、大友家は義統の娘の系統である大友義孝に千石が与えられて、子孫は代々高家として存続しています。
次回も引き続き、キリシタン大名、武将について紹介します。


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