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キリシタン大名一覧とそれぞれの晩年2

 前回「キリシタン大名一覧とそれぞれの晩年1」に続いて、主なキリシタン大名、武将とそれぞれの晩年について紹介していきます。

有馬晴信

 1580年受洗。洗礼名プロタジオ、ジョアン。肥前の大名で、天正10年(1582)には大友宗麟や叔父の大村純忠と共に天正遣欧少年使節を派遣しています。

 天正12年(1584)の沖田畷の戦いで島津家とともに宿敵龍造寺隆信を討ち、秀吉の九州平定では島津家と縁を切り豊臣勢に加わり、関ヶ原の戦いでは東軍に付いて戦国の世を巧みに生き残ります。

 ところが、順調だった晴信の運命を変える事件が起こります。

 晴信は、慶長13年(1608)にポルトガル領マカオでの騒擾事件で家臣らが殺害された報復として、翌年ポルトガル船マードレ・デ・デウス号を長崎港外で攻撃し、船長アンドレ・ペソアを自決に追い込みます。

 晴信は、この事件の恩賞として龍造寺家に奪われていた旧領の回復を望んだのですが、当時の権力者である本多正純の家臣岡本大八がその斡旋をするというので多額の賄賂を大八に渡します。

 大八は家康の偽の朱印状まで用意し、晴信から6000両にもおよぶ金銭を受け取りますが、いつまでたっても恩賞の沙汰がないことを不審に思った晴信が本多正純に直談判したところ、斡旋の事実はなく大八が晴信から金を騙し取っていたことが発覚したのです(岡本大八事件)。

 大八は拷問により朱印状偽造を認めますが、それだけでなく晴信が仲違いしていた長崎奉行の長谷川藤広の暗殺を謀っていると主張したのです。

 大八は死罪となりますが、晴信も取り調べられた結果、長谷川藤広への害意を認定され、甲斐国へ流罪となり同所で切腹となります(キリシタンであるため自害を拒み家臣に首を打たせたとも)。

 なお、晴信の子有馬直純は、松平信康の孫国姫(家康の曾孫)を正室として家康に近侍していたため遺領4万石の相続が認められ、有馬家は日向、越後と転封しながら、最終的には越前丸岡藩主として存続し明治まで存続しています。

黒田孝高(如水)

 1585年受洗。洗礼名シメオン。2014年の大河ドラマ「軍師官兵衛」でも有名な戦国武将ですが、敬虔なキリシタンでもありました。

 秀吉没後は息子長政とともに家康との距離を縮め、関ヶ原の戦いでは東軍に付きます。長政は家康に従軍し関ヶ原本戦で活躍しますが、如水は領国豊前を中心に九州で暴れまわります。

 黒田家の主力は長政が率いていたため、如水は金で浪人を雇い入れ、旧領回復を狙う大友義統や柳川の立花勢らを下し、加藤清正ら東軍大名とともに九州制圧目前までいきます。

 西軍となっていた島津家との講和が成立したため軍を収めますが、即席軍であったにもかかわらずさすがの戦いぶりでした。

 関ヶ原の功により黒田家は福岡52万石の太守となりますが、如水は一線を退き福岡と上方を行き来したり温泉で長期湯治する隠居生活を送ったようです。

 関ヶ原の戦いから4年後の慶長9年(1604)に京都伏見福岡藩邸で死去し、宣教師らに追悼されています。

 なお、死期が迫ると急に家臣らに対して罵声を浴びせるようになったため、家臣らが「病気のためついに乱心なされた」と長政に訴えたそうです。

 長政が如水に「家臣が恐れています」と宥めると、如水は密かに「これはお前のためだ。家臣たちがお前の世を待ち望むようにしているのだ」と答えたといわれています。

木下勝俊

 1587年受洗。洗礼名ペドロ。豊臣秀吉の正室・高台院の甥に当たり、秀吉の一族として厚遇され若狭小浜城主となります。

 関ヶ原の戦いでは東軍に属して伏見城留守居の将とされますが、城将鳥居元忠に退去を迫られこれに従った結果、敵前逃亡したと戦後に責められて改易されてしまいます。

 後に父木下家定の備中足守藩を継いで第2代藩主となり大名に返り咲きますが、異母弟利房と遺領を争った結果、幕府の裁定によりまたもや所領を没収されます。

 その後京都に隠棲して文化人と交流を深めながら文人となり、後水尾天皇が勅撰したと伝えられる集外三十六歌仙にも名を連ね、慶安2年(1649)に80歳で死去しますが、和歌は松尾芭蕉にも影響を与えたといわれています。

京極高吉

 1581年受洗。代々近江守護であった京極家の当主でしたが、高吉の代には浅井家に実権を奪われ、浅井家滅亡後は信長に息子を出仕させ庇護下に入っています。

 天正9年(1581)、妻の京極マリア(浅井長政の姉)と共に安土城下の修道院で行われていたキリスト教の説教を40日にわたって聴いたのちに洗礼を受けましたが、その数日後に死去しています。突然の死に人々は仏罰で没したと噂したそうです。

 なお、妻のマリアは大名として残った息子達の庇護下で信仰を続け、元和4年(1618)年に丹後(現京都府)で死去しています。

蒲生氏郷

 1585年受洗。洗礼名レアン。信長の娘婿となり織田、豊臣政権下で頭角を現して会津92万石の太守となります。

 茶人として同じ利休七哲(りきゅうしちてつ)とされた高山右近の勧めで洗礼を受けたといわれます。

 氏郷は会津の領民にも改宗を勧め、会津若松市内には天子神社という教会跡があり、支城の置かれた猪苗代にはセミナリオがあったといわれています。

 文禄4年(1595)、朝鮮出兵のため肥前名護屋へ参陣した際に体調を崩し、伏見屋敷において40歳で病死しますが、蒲生家は家中内紛などでの減転封ののち、江戸初期の孫の代に無嗣改易となっています。

筒井定次

 大和の大名筒井順慶の一族に生まれ、後に順慶の養嗣子となり筒井家を継ぎます。養嗣子時代に織田信長の娘婿となり、豊臣政権下でも活躍、天正13年(1585)には伊賀上野20万石の大名となります。

 キリスト教へは、天正20年(1592)に長崎で受洗したといわれています。

 関ヶ原の戦いでは東軍について所領を安堵されますが、慶長13年(1608)、突如改易されてしまいます。伊賀は大坂に近い要衝の地で、定次は豊臣氏にも近かったことから、家康の対豊臣政策の一環だったとも。

 更に、大坂冬の陣後の慶長20年3月、豊臣氏へ内通したとの疑いをかけられ、嫡男順定(じゅんてい:信長の外孫)とともに、自害させられています。

坂崎直盛

 1594年受洗。洗礼名パウロ。元の名を宇喜多詮家(あきいえ)といい、従兄弟である宇喜多秀家に仕えていました。大坂城下で宣教師の話を聞き、入信したといわれています。

 後に秀家と袂を分かち、関ヶ原の戦いでは東軍に付いて、戦後津和野3万石の大名となります。

 直盛の名を有名にしたのがいわゆる「千姫事件」です。事件については諸説ありますが、大坂夏の陣で千姫の救出に関係した直盛が、戦後の千姫の扱いを巡って憤激し、千姫を強奪する計画を立て、計画を知った幕閣に唆された家臣により殺害されたといわれています。

 結局坂崎家も改易となっています。

明石全登(てるずみ)

 洗礼名ジュスト。同じ宇喜多秀家家臣であった宇喜多詮家(坂崎直盛)に誘われて入信したようですが、熱心な信者となったようです。

 秀家の重臣として宇喜多家から4万石、それとは別に豊臣秀吉からも6万石をもらい合計10万石を領していましたが、関ヶ原での敗戦後は、逃亡し、親戚であり同じ切支丹でもあった黒田官兵衛の元に身を寄せたといわれます。

 官兵衛の死後黒田家を出た後の行動はよく分かっていませんが、大阪の陣に豊臣方として参戦します。一軍を任せられ、各地の戦いで善戦しますが、結局討ち取られたとも逃亡したともいわれています。

織田秀信

 洗礼名ポーロ?。織田信長の嫡男信忠の長子であった秀信(三法師)は羽柴秀吉によって擁立され、一時は織田家の家督を相続し、秀吉によって美濃国岐阜13万石を与えられます。

 キリスト教へは、文禄4年(1595)頃に弟織田秀則とともに入信したといわれています。

 関ヶ原の戦いで西軍に付いたため、美濃国岐阜13万石を没収されて、高野山に流されました。秀信は高野山で修行を積むことになりますが、祖父信長の行った高野山攻めが仇となって、迫害を受けたといわれています。

 その後、高野山を追放され(追放理由は不明)、紀州向副村に閉居し、しばらくして亡くなったと伝えられています。高野山を追放されたあとに、紀州向副村の地元の豪族の娘との間に子供を儲けたとの話が伝わっていますが、詳細は不明です。

 また、弟秀則は、関ヶ原の戦いで兄と共に岐阜城に籠城しますが、戦後は豊臣家を頼り大坂城下に移り住んでいます。その後、寛永2年10月27日、京都において死去しています。娘が小笠原家に嫁いだとされていますが、よく分かっていません。

織田長益(有楽斎)

 1588年受洗。洗礼名ジョアン。織田信長の弟で、本能寺の変後は甥織田信雄に仕えた後に豊臣秀吉の御伽衆となります。

 関ヶ原の戦いでは東軍に付き大和で3万石を与えられ、その後も姪である大阪城の淀殿豊臣秀頼の元に出仕し、大坂方の穏健派として徳川家との間を仲介していましたが、大坂夏の陣前には豊臣氏を見限り大坂城を出ています。

 大坂退去後は京都に隠棲して「正伝院」を再興し、そこで茶道三昧の生活を送ったのち、元和7年(1622)に71歳で死去しました。

 有楽斎の子孫は大和国内で、四男長政の系統である芝村藩と五男尚長の系統である柳本藩の2藩が明治まで存続しています。

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【主要参考文献】
国立国会図書館デジタルコレクション

駿南社)
新生堂)