天下人になった秀吉には多くの妻がいましたが、糟糠の妻であった正室寧々(ねね・北政所・高台院)と、唯一秀吉の子を生んだ最寵愛の茶々(淀殿)は別格の存在でした。
年齢、生まれ育った家柄、秀吉の妻となった経緯、全てが全く異なり、従来対立関係にあったといわれてきた2人の関係はどのようなものであったのでしょうか?
もうひとつの黒百合伝説とは?
まずは2人が関係する伝説を紹介します。佐々成政の「黒百合伝説」については以前紹介しましたが・・・
これとは別に寧々と茶々が関係する「黒百合伝説」も知られています。この伝説は、
秀吉の九州平定の後、佐々成政が肥後一国を与えられた礼に、加賀の山奥から珍花であった「黒百合」を取り寄せて北政所に贈った。
北政所は喜び、淀殿やその妹たち女性陣を招いてその黒百合を飾って「主役」とし当時流行していた茶会を開くこととした。
茶会は千利休の娘が世話をして開くこととなったが、淀殿はその娘から「黒百合」の話を事前に聞くと、自分も加賀に使いを遣り急遽黒百合を取り寄せることとした。
茶会自体は滞りなく開催され、数日後に茶会の御礼として今度は淀殿が北政所を招いて花会を開催したが、その場では密かに取り寄せていた黒百合を、わざと無造作に他の花々と一緒に生けてあった。
黒百合を珍花として誇っていた北政所は赤面し、恥をかかされたとして佐々成政を恨んだことが元となり成政は肥後一国を召し上げられ切腹させられることとなった。
肥後は北政所が可愛がっていた加藤清正と、淀殿と仲が良かった小西行長に半国ずつ与えられた。
小田原からの手紙
茶々は、天正17年(1589)に秀吉の長子鶴松を生み、呼び名の由来となった淀城を与えられます。
翌年の小田原征伐時に秀吉は、茶々をわざわざ小田原まで呼び寄せています。この時秀吉は寧々に手紙を出し、
と、長陣になるので諸大名に女房を呼び寄せさせたとか前置し、寧々のことも持ち上げた上で、寧々に茶々を小田原に寄こさせるよう依頼しています。(見え透いた秀吉の要求ですね(*_*;)
この頃の寧々と茶々の仲は分かりませんが、秀吉でさえ寧々の意向を無視できないという存在感の大きさを伺い知ることができます。
また秀吉は寧々に対し、この手紙だけでなく朝鮮出兵時の肥前名護屋などからも度々手紙を送っており、かなり寧々を大事にし気を遣っています。
秀吉の妻という同じ立場でライバル関係であったというより、寧々は秀吉にとって特別な存在であり、また、豊臣氏の家政を取り仕切る別格の立場であったといえます。
関ヶ原の戦いは代理戦争?
慶長3年(1598)に秀吉が没すると、寧々は翌年には京都に居を構え、秀吉の菩提を弔いながら表舞台から身を引きます。
慶長5年の関ヶ原の戦いにおける陣営について、従来、茶々が西軍寄り、寧々が東軍寄りで対立関係にあったともいわれていました。
確かに、石田三成は茶々の故郷である近江を本拠とし、加藤清正や福島正則などの秀吉子飼いの武将や寧々の親族である浅野長政や小早川秀秋が東軍に付いています。
しかし、清正や秀秋の立位置は複雑なものであり、茶々に最も近かった大野治長は東軍として戦い、また、寧々は石田三成の娘辰姫を養女にしているなど、2人に近いそれぞれの人物の行動は様々で一概に陣営を分けることはできません。
また、寧々も茶々も諸将に対して「秀頼のために動くように」との意向は発しているものの両陣営とは一定の距離をおいていることから、近年では関ヶ原の戦いで2人の対立があったとはいえないといわれてきています。
その後の2人は・・
関ヶ原の戦い後の茶々については、知られているとおり秀頼と共に大坂城にあり、元和元年(1615)大坂夏の陣において49歳で自刃しています。
一方の寧々は関ヶ原の戦い後、京都において宮中、公家や寺社と交流しながら秀吉の菩提を弔っていましたが、
慶長8年(1603) 秀頼婚儀のため
慶長10年(1605) 家康の依頼により秀頼に上洛を促すため
に大坂へ赴いたとされ、また、慶長14年(1609)や大阪の陣直前には大阪城に入ろうとし家康に阻止されたともいわれます。
大坂の陣での豊臣氏滅亡を見届けた後も京都で平穏に暮らし、寛永元年(1624)76歳で死去しました。
寧々と茶々は、意見や方向性を異にしたりすることもありましたが、交流もあり協力することもあり、対立・ライバル関係にあったというものではなく、あくまでも豊臣氏や近しい者達のためにそれぞれの立場で役割を果たしていたといえるのではないでしょうか。
参考文献
国立国会図書館デジタルコレクション
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