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臼井六郎~日本最後の仇討ち!?

 今回は日本最後の仇討ちをした人物といわれ、藤原竜也さん主演のテレビドラマ『遺恨あり 明治十三年 最後の仇討』にもなった臼井六郎の人生について紹介します。

 なお、明治6年にいわゆる「仇討禁止令」が出た後の仇討ちであり、法的には「仇討」と認められていないことから「最後の仇討ち」といえるかは微妙なところですが、実質的には完全な仇討ちであり、当時は「最後の仇討ち」としてもてはやされました。

父母の惨殺

 なぜ、六郎が仇討ちをするに至ったかといいますと・・・そこには、幕末の藩内派閥抗争が関係していました。

 六郎の父臼井亘理は筑前国秋月藩(福岡藩黒田家の支藩5万石)の執政心得首座公用人をつとめていました。秋月藩は本藩の福岡藩が親幕派であったため、本藩に同調しており、亘理も同じ考えでしたが、京都で活動を続けるうちに、親幕派から新政府派に考えが変わっていきます。また、亘理が主導した洋式軍制の導入や家中の勢力争いも相まって、国許の尊王攘夷派「干城隊」の恨みを買うことになったのです・・・

 やがて藩主の命で秋月への帰国を言い渡されます。この父の帰国が六郎のその後の運命を決定することになるとは・・・

 慶応4年(明治元年)5月23日、秋月へ戻って来た亘理は、その晩、親戚や同志たちと自邸で酒宴を催しました。そして、客人が去り、妻の清子と寝所に入り深く寝入った所を干城隊に襲撃されたのです。

 亘理は山本克己(一瀬直久)によって刀を突き立てられ、首を刎ねられました。清子は夫の異変に気付いて抵抗しましたが、萩谷静夫(伝之進)により惨殺されました。また、3歳の妹つゆも負傷しています。

 そして、妹の泣き声と異常な物音を聞き、起き出してきた11歳の長男六郎は、終生忘れることができない凄惨な光景を目にすることになります。

 そこには肩から胸にかけて大きく切り裂かれ、首のない父の身体と、ズダズタに切り裂かれ殺された母の無惨な姿がありました・・・

 事件後、臼井家に押し入ったのは干城隊であることがわかりました。

 親族が即日藩庁へ事件を届け出ますが、干城隊を支持する藩庁は、殺害された亘理は、自らの行いが今回の襲撃を招いたとして、本来なら家名断絶に等しいが、家筋に免じて300石から250石への減禄に処すとの裁定を下します。また、干城隊は「忠誠の士」として無罪となったのです。

 この理不尽極まりない仕打ちに、まだ幼かった六郎は「骨髄二徹シ切歯憤怒二堪ヘズ必ズ復讐スベキ」と父母の復讐を堅く誓います。また、叔父の渡辺助太夫(亘理の弟)が臼井慕(したう)と改名し臼井家を継ぎ、六郎の養父となります。

 後に亘理派の藩士たちが脱藩して宗藩である福岡藩に訴え出るも、相手にされないうちに廃藩置県となってしまったのです。

仇は誰か?

 仇が誰であるかわからず、途方に暮れていた六郎ですが、思いがけないことから仇を知ることになります。干城隊の一瀬直久の弟が藩校で学友に「兄が家伝の名刀で亘理を斬った」と自慢していたとの話を聞いたのです。

 六郎は養父の慕に父の仇が判明した事を報告し、復讐したいと申し出ます。しかし養父からは「己で復讐をしたいのであれば、文武を学び、その後で己で決めよ」と戒められます。一瀬は腕の立つ男で、子供である六郎のかなう相手ではなかったことからそう諭したのかもしれません。

 なお、その後投書により母の殺害犯は萩谷静夫である事が判明しました。

六郎東京へ

 しかし、明治5年(1872)頃、一瀬が一家で東京に移住したことを知ります。遠く離れてしまった仇に空しく恨みを募らせていましたが、4年後、六郎は養父に遊学のためと称して東京行きを願い出て許しを得、明治9年(1876)8月に亡夫の形見である短刀を携えて、西久保明船町に住む叔父の上野月下を頼って上京したのです。

 上京した六郎は、叔父の同僚の紹介で、山岡鉄舟宅に住み込みの内弟子として世話になって撃剣を学び、仇討ちの機会を待ちます。山岡邸ではよく働き稽古に励み、山岡夫妻に目を掛けられたようです。

 なお、六郎が上京してすぐの明治9年10月、亘理を襲撃した元干城隊士らは「秋月の乱」を起こし、処刑や懲役、除族等の処罰を受けています。

仇討ちを狙う日々

 明治11年(1878)、一瀬が甲府裁判所に異動になったことを聞き、六郎は湯治に行きたいと嘘をついて暇をもらい甲府に向かいましたが、一瀬と会えずに帰京しました。

 翌月再度甲府へ赴くも結局一瀬に会うことはできず所持金も尽きたため、復讐の時未だ来たらずと考え、明治11年10月、熊谷裁判所の雇員となります。

翌12年7月、夏季休暇により一瀬が東京に戻ってくるかもと考え、裁判所を辞し東京へ戻りますが、一瀬は戻ってこず空しく日々を過ごします。

 明治13年(1880)11月、一瀬が東京上等裁判所の判事になっていることを聞き、一瀬の自宅と思われる家と裁判所周辺で待ち伏せましたが、一瀬の姿を見ることはありませんでした。

 やがて、一瀬がしばしば京橋の元秋月藩主の黒田長徳邸へ碁を打ちに出掛けるのを知ったのです。

仇討ち決行

 そして、明治13年(1880)12月17日、ついに仇討ちのチャンスが訪れました。

 まず、黒田家の家扶、黒田屋敷内の鵜沼不見人宅を訪ね2階で談話していたところ、突如来客の一人として一瀬が現れたのです。しかし、周囲に人がいたため、邪魔されないよう慎重に機会を窺います。そして、一瀬が手紙を渡しに黒田本邸に一人で向かったため、これを好機として、六郎は静かに階下に降り、物陰に隠れ一瀬の戻りを待ち伏せます。

 やがて本邸から一瀬が戻ってきたため、ついに六郎は、「父の仇覚悟せよ」と声をかけ襲いかかります。顔色を変え表へ逃げようとする一瀬を追いかけ、左手で襟元をつかみ、右手で父の形見である短刀で首を狙うも外れたため、再度持ち替えて胸を刺します。

 一瀬は「なあにこしゃくな」と組みついてきたため、「父の仇思い知れ」と再度胸を刺すと、一瀬は「乱暴人」と叫び、六郎は「奸賊思い知れ」と言いながら組み伏せ、止めを刺したのです。

 一瀬が息絶えたことを確認すると、六郎は血まみれの羽織を脱ぎ捨て、人力車を拾い、警察に向かいました。

事件後~関係人物のそれぞれ

 自首した六郎は京橋警察署へ連行され、取り調べののち、裁判にかけられました。旧藩時代であれば、親の仇討は犯罪ではないどころか、よくやったと栄誉を受けていたでしょう。

 知らせを受けた秋月に残る六郎の祖父は歓喜したと伝わります。

 まだ江戸時代が終わって、そう時が経っていません。世間では「最後の仇討ち」ともてはやされ、六郎に同情的でした。しかし、明治6年2月に「仇討禁止令」が布告されていたのです。

 現職の東京上等裁判所の判事が襲われるという司法関係者にとっては衝撃的な事件でしたが、判事たちは六郎に同情的で、父亘理が殺害された時の藩の対応を「奇怪の処分なり」とし、その後宗藩(福岡藩)や政府に訴えても相手にされなかったため犯行に及んだもので酌量減刑すべきとした考えもありました。

 判事たちは同情の気持ちと、法を厳格に適用しなければならない立場との狭間で悩んだかもしれませんが、明治14年(1881)9月22日、以下の判決を下し六郎は終身禁獄の刑を宣告されます。本来なら死刑でしたが、士族という身分により減刑されています。

言渡書
福岡県筑前国夜須郡野鳥村四百七拾八番地 士族
臼井慕 長男
臼井六郎
其方儀明治元年五月二十三日夜、父母ノ寝所へ忍入父亘理及母ヲモ殺害シ、嬰孩ノ妹ニマデ傷ヲ負ハセ立去リシ者アリ。其場二至リ視ルニ、其惨状見ルニ忍ビズ。此ノ暗殺ヲ為シタル者ハ干城隊士数名ニシテ、父母ニハ其罪ナシト聞キ、幼年ナガラモ痛念二堪ヘズ、必ズ復讐セザルベカラズト思ヒ、後チ父亘理ヲ殺害シタル者ハ、右隊士一瀬直久ニシテ、又右暗殺ヲ為シタル輩ニハ罪ナク、却テ父亘理ハ死後冤枉二陥ラレシト聞キ、之ヲ事実ト認ルヨリ、益々痛念激切、父ノ讐ヲ手刃スルヨリ外ナシト決心シ、明治拾三年拾二月拾七日、鵜沼不見人宅二於テ一瀬直久二出遇ヒ、父ノ仇覚悟セヨト声掛ケ、予テ携フル短刀ヲ以テ相闘ヒ、卒二殺害二及ビ、直二警察署二詣リ自訴ス。右科改定律例第二百三十二条ニ依リ、謀殺ヲ以テ論ジ、士族タルニ付改正閏刑律ニ照シ、自首スト雖モ首免ヲ与フルノ限二アラザルニ依リ、禁獄終身申付ル
明治十四年九月廿二日
東京裁判所

 六郎の入獄後、一瀬の父直温は自宅で自殺します。

 これは明治15年5月19日の『東京横浜毎日新聞』の記事です。

臼井六郎の怨刃に斃れたる一瀬直久の父縊死す
「彼の臼井六郎が怨刃の下に、一命をおどしたる福岡県士族一瀬直久が実父直温(六十四年)は、長男直久が非業の死を遂げてより因果応報の理にや感じけん、又は悲哀憤鬱の情にや沈みけん、常に痛歎のみなし居たりしが昨日午前七時頃自宅の雪陰にて自殺して果てたりと、之は多分発狂せしものならんと云ふ。」

 世間では「最後の仇討ち」と六郎を喝采する声が溢れていたそうです。

 なお、母の仇であった萩谷静夫は、亘理暗殺の際女子供に手をかけたことを武士にあるまじき行為と責められ気を病んでおり、六郎の仇討ち後狂死したともいわれています。

出所後の六郎

 服役中の六郎は生来の真面目な性格から、いわゆる模範囚であったようで、余暇には和歌を詠んだりもしていたそうです。

 明治22年(1889)、大日本帝国憲法発布の特赦で禁獄10年に減刑された六郎は、明治24年(1891)9月22日に釈放されます。34歳になっていました。

 早速その日、山岡鉄舟夫人、大井憲太郎、星亨ら各界の名士によって六郎の慰労会が開かれています。

 そして、父母の墓参りのため秋月に帰郷した際は、大勢の民衆から大歓迎を受けたそうです。

 その後は東京でしばらく暮らし、一旦単身で大陸に渡ったあと、妹つゆの婚家があった福岡の門司へ移り住み、結婚して饅頭屋を営みます。六郎の復讐劇は小説や演劇の題材となり、六郎は英雄視されますが、本人は表立った活動はせず、静かに暮らしたようです。

 六郎夫婦の間には子供がいなかったため、叔父上野月下の次男を養子に貰い受けました。

 明治40年頃、六郎は実業家で貴族院議員でもあった叔父八坂甚八(亘理の妹の夫)の世話で、乗り換え拠点として賑わっていた鳥栖駅前で待合所を営み、そこで余生を過ごしました。待合所は繁盛し、余裕のある暮らしをしていたようです。

 大正6年(1917)、病気により60歳で亡くなり、秋月の古心寺に両親の墓の横に眠っています。

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【主要参考文献】
国立国会図書館デジタルコレクション
亀陽文庫)
半狂堂)