今回は日本最後の仇討ちをした人物といわれ、藤原竜也さん主演のテレビドラマ『遺恨あり 明治十三年 最後の仇討』にもなった臼井六郎の人生について紹介します。
父母の惨殺
なぜ、六郎が仇討ちをするに至ったかといいますと・・・そこには、幕末の藩内派閥抗争が関係していました。
六郎の父臼井亘理は筑前国秋月藩(福岡藩黒田家の支藩5万石)の家老をつとめていました。秋月藩は本藩の福岡藩が親幕派であったため、本藩に同調しており、亘理も同じ考えでしたが、京都で活動を続けるうちに、親幕派から新政府派に考えが変わっていきます。そして、このことが国許の親幕派「干城隊」の恨みを買うことになったのです・・・
やがて藩主の命で秋月への帰国を言い渡されます。この父の帰国が六郎のその後の運命を決定することになるとは・・・
秋月へ戻って来た亘理は、その晩、親戚や同士たちと自邸で酒宴を催しました。そして、客人が去り、妻の清子と寝所に入り深く寝入った所を干城隊に襲撃されたのです。
亘理は山本克己(一瀬直久)によって刀を突き立てられ、首を刎ねられました。清子は夫の異変に気付いて抵抗しましたが、萩谷伝之進により惨殺されました。また、隣室で寝ていた3歳の妹つゆも負傷しています。
そして、妹の泣き声と異常な物音を聞き、起き出してきた11歳の長男六郎は、終生忘れることができない凄惨な光景を目にすることになります。
そこには肩から胸にかけて大きく切り裂かれ、首のない父の身体と、ズダズタに切り裂かれ殺された母の無惨な姿がありました・・・
事件後、臼井家に押し入ったのは干城隊であることがわかりました。
親族が即日藩庁へ事件を届け出ますが、干城隊を支持する藩庁は、殺害された亘理は、自らの行いが今回の襲撃を招いたとして、本来なら家名断絶に等しいが、家筋に免じて減禄に処すとの裁定を下します。また、干城隊は「忠誠の士」として無罪となったのです。
この理不尽極まりない仕打ちに、まだ幼かった六郎は「骨髄二徹シ切歯憤怒二堪ヘズ必ズ復讐スベキ」と父母の復讐を堅く誓います。また、叔父の渡辺助太夫(亘理の弟)が臼井慕と改名し、六郎の養父となります。
仇は誰か?
仇が誰であるかわからず、途方に暮れていた六郎ですが、思いがけないことから仇を知ることになります。干城隊の一瀬直久の弟が藩校で学友に「兄が家伝の名刀で亘理を斬った」と自慢していたとの話を聞いたのです。
六郎は養父の慕に父の仇が判明した事を報告し、復讐したいと申し出ます。しかし養父からは「己で復讐をしたいのであれば、文武を学び、その後で己で決めよ」と戒められます。また、投書により母の殺害犯は萩谷伝之進である事が判明しました。
六郎東京へ
明治5年(1872)、一瀬が一家で東京に移住したことを知ります。そして、4年後の明治9年(1876)、六郎は養父に遊学のための東京行きを願い出、西久保明船町に住む叔父の上野月下を頼って上京します。
上京した六郎は、叔父の同僚の紹介で、山岡鉄舟宅に住み込みの内弟子として世話になって撃剣を学び、仇討ちの機会を待ちます。
仇討ちを狙う日々
明治11年(1878)、一瀬が甲府裁判所に異動になったことを聞き、六郎は湯治に行きたいと嘘をついて暇をもらい甲府に向かいましたが、一瀬と会えずに帰京しました。
明治13年(1880)11月、一瀬が東京上等裁判所の判事になっていることを聞き、一瀬の自宅と思われる家と裁判所周辺で待ち伏せましたが、一瀬の姿を見ることはありませんでした。
やがて、一瀬がしばしば京橋の元秋月藩主の黒田長徳邸へ碁を打ちに出掛けるのを知ったのです。
仇討ち決行
そして、明治13年(1880)12月17日、ついに仇討ちのチャンスが訪れました。
まず、黒田家の家扶、鵜沼不見人宅を訪ねたところ、来客の一人として一瀬が現れました。そして、一瀬が手紙を渡しに黒田邸に一人で向かったため、これを好機として、六郎は一瀬を追います。
黒田邸から戻ってくるところを待ち伏せ、「父の仇」と声をかけ襲いかかります。逃げる一瀬を追いかけ、襟元をつかみ、祖父から譲り受けた父の形見の脇差で首、胸を刺します。一瀬が息絶えたことを確認すると、六郎は血まみれの羽織を脱ぎ捨て、人力車を拾い、警察に向かいました。
事件後~関係人物のそれぞれ
自首した六郎は京橋警察署へ連行され、取り調べののち、裁判にかけられました。旧藩時代であれば、親の仇討は犯罪ではないどころか、よくやったと世間にも美談として取り上げられたことでしょう。
まだ江戸時代が終わって、そう時が経っていません。世間では、この仇討はおおむね六郎に同情的でした。しかし、明治6年2月に「仇討禁止令」が布告されていたのです。
明治14年(1881)9月22日、裁判により終身禁獄の刑を宣告されます。本来なら死刑でしたが、士族という身分により減刑されたのです。
以下に裁判時の言渡書を記載します。
福岡県筑前国夜須郡野鳥村四百七拾八番地 士族
臼井慕 長男
臼井六郎
其方儀明治元年五月二十三日夜、父母ノ寝所へ忍入父亘理及母ヲモ殺害シ、嬰孩ノ妹ニマデ傷ヲ負ハセ立去リシ者アリ。其場二至リ視ルニ、其惨状見ルニ忍ビズ。此ノ暗殺ヲ為シタル者ハ干城隊士数名ニシテ、父母ニハ其罪ナシト聞キ、幼年ナガラモ痛念二堪ヘズ、必ズ復讐セザルベカラズト思ヒ、後チ父亘理ヲ殺害シタル者ハ、右隊士一瀬直久ニシテ、又右暗殺ヲ為シタル輩ニハ罪ナク、却テ父亘理ハ死後冤枉二陥ラレシト聞キ、之ヲ事実ト認ルヨリ、益々痛念激切、父ノ讐ヲ手刃スルヨリ外ナシト決心シ、明治拾三年拾二月拾七日、鵜沼不見人宅二於テ一瀬直久二出遇ヒ、父ノ仇覚悟セヨト声掛ケ、予テ携フル短刀ヲ以テ相闘ヒ、卒二殺害二及ビ、直二警察署二詣リ自訴ス。右科改定律例第二百三十二条ニ依リ、謀殺ヲ以テ論ジ、士族タルニ付改正閏刑律ニ照シ、自首スト雖モ首免ヲ与フルノ限二アラザルニ依リ、禁獄終身申付ル
明治十四年九月廿二日
東京裁判所
六郎の入獄後、一瀬の父直温は自宅で自殺します。
これは明治15年5月19日の『東京横浜毎日新聞』の記事です。
「彼の臼井六郎が怨刃の下に、一命をおどしたる福岡県士族一瀬直久が実父直温(六十四年)は、長男直久が非業の死を遂げてより因果応報の理にや感じけん、又は悲哀憤鬱の情にや沈みけん、常に痛歎のみなし居たりしが昨日午前七時頃自宅の雪陰にて自殺して果てたりと、之は多分発狂せしものならんと云ふ。」
また、母の仇であった萩谷伝之進は、六郎の仇討ち達成を知ると、「六郎が来る、六郎が来る」と叫びながら狂死したといわれています。
出所後の六郎
明治22年(1889)、大日本帝国憲法発布の特赦で禁獄10年に減刑された六郎は、明治24年(1891)9月22日に釈放されます。34歳になっていました。
その後は妹つゆの婚家があった福岡の門司へ移り住み、結婚して饅頭屋を営みます。
六郎夫婦の間には子供がいなかったため、叔父上野月下の次男を養子に貰い受けました。
最終的に六郎は鳥栖に移り、九州鉄道の鳥栖駅で待合所を営み、そこで余生を過ごしました。
大正6年(1917)、病気により60歳で亡くなり、秋月の古心寺に両親の墓の横に眠っています。
せめて晩年は平穏な日々を送れたものと願いたいですね。




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