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藤原道長の晩年~その最期は幸せだったのか?

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることの なしと思へば

 このいわゆる「望月の歌」は、道長の三女藤原威子が後一条天皇の中宮として立后され、これにより(一条天皇)太皇太后彰子(しょうし・あきこ)、(三条天皇)皇太后妍子(けんし・きよこ)、中宮威子(いし・たけこ)という三后すべてを道長の娘が占めるという、道長の栄華が絶頂に達した宴の席で詠まれた歌です。

 藤原氏の絶頂期を築いて権勢をふるい、この世の栄華を極めたと自負した藤原道長ですが、どのような晩年を迎えたのでしょうか。

 長和5年(1016)、道長の土御門邸が火災で焼失した際は、諸国の国司たちに一間ごと再建工事を分担させています。あくまでも摂家の私邸工事を国司に課した公私混同に、藤原実資は前代未聞のことだと書き残しています。

 道長にその任免を左右される国司たちは、こぞって工事を競い合い、その人夫たちが民家から戸板を奪い工事運搬資材として使うなど、人民に多大な迷惑をかけたそうです。

 土御門邸の再建工事のため、前年に焼失した内裏再建工事がおろそかになったとも。

 さらに、伊予国司の源頼光は、家具・調度品一切までも貢いだことで知られています。

 道長が冒頭の「望月の歌」を詠んだのが寛仁2年(1018)ですが、そのころから目を悪くし胸の痛みにも苦しむようになり、翌寛仁3年(1019)3月には出家しています。胸の痛みで心身不覚に陥る事さえあったそうです。

 2,3尺(60~90㎝)先の人の顔も分からないようになり、糖尿病も患っていたと考えられますが、人々からは怨霊によるものと噂され、自身も怨霊を恐れる日々を送るようになったようです。容貌も「老僧のごとし」といわれるほど衰えていきます。

 その後、一旦体調を持ち直します。現世で栄華を極め、あとの望みは極楽往生であった道長は、浄土教を信仰し、賀茂川沿いの広大な敷地に御所よりも豪華な法成寺という寺を建ててそこに居を構えます。

 この法成寺を建立する際も、土御門邸のときと同じように工事を各国司に分担させ、道長の嫡男頼通は、わざわざ各地の公共事業よりこの工事を優先させるよう命令を下していたと・・・・。一日に5,6百~千人の人夫が動員されたとか。

 ちなみに法成寺は後に焼失していますが、頼通が作った宇治の平等院は法成寺を倣って作られたものといわれています。

 形としては栄華、贅沢を極めた道長ですが、晩年は娘たちが次々と死んでいく不幸に見舞われます。

 万寿2年(1025)に敦明親王(小一条院)妃であった三女寛子が亡くなります。この死に関しては、元々敦明親王妃であった延子とその父藤原顕光の怨霊によるものと噂されており、寛子の臨終時に「いまぞむねあく」(やっとさっぱりしたぞ)との怨霊の声が響き渡ったといわれています。

 敦明親王は、道長に退位に追い込まれた三条天皇の皇子で、三条天皇退位後に後一条天皇の皇太子となっていましたが、外祖父の地位を欲した道長の圧力により皇太子の地位を辞退します。その代わりに道長の娘寛子の婿として迎えられ厚遇されたのですが、捨てられる形となった延子は病んで若くして亡くなり、延子と父顕光は怨霊となり道長に祟ったといわれていました。(栄華物語)
※延子は寛仁3年(1019)、顕光は治安元年(1021)死去

 このころの道長とその一族は物の怪に悩まされ、度々祈祷を行いますが・・・。

 その後すぐに皇太弟敦良親王(御朱雀天皇)妃であった六女嬉子が、皇子(後の御冷泉天皇)を出産後2日で麻疹で亡くなります。道長は食事も取れず伏せってしまい、俗世を離れて山奥に入りたいとまで嘆きます。

 万寿4年(1027)、死期が近づいてきたことを悟ったのか、道長は、亡くなった嬉子の代わりに、次女妍子(三条天皇中宮)の娘禎子を皇太子敦良親王に入内させるよう急がせます。

 急遽決定した入内に準備に当たる女房達は大慌てで、道長は姉妹が多くいた源実基(源高明の孫・道長の妻明子の甥)に給仕として一人差し出すよう命を出しますが、実基が拒否したため激怒し、今後実基の一族を一切宮中に近付けるなとまで言い放ったとされています。

 無事入内を済ませるも、その後すぐに出家していた息子の顕信が亡くなり、更に同年(万寿4年)9月には、次女妍子が亡くなります。死に際して道長は取り乱して呆然自失となり、「私たちも連れて行ってくれ」と泣き伏したそうです。相次ぐ悲しみに道長は急速に衰え、やせ衰えていきます。

 道長は、御堂に籠り、誰にも会いたがらず念仏を唱えるばかりでしたが、食事もあまり取らず、やがて念仏も唱えずただ静かに祈るようになっていったといいます。

 道長の息子、娘たちは諸寺に命じて快癒を祈祷させ、天皇の法成寺への見舞いの行幸までもありましたが、万寿4年(1027)12月4日、法成寺の阿弥陀堂で阿弥陀仏から引いたはすで作った糸を手に持ち、念仏を唱えながら道長は息を引き取ったのです。

 娘たちに先立たれ、怨霊に怯え、ひたすら極楽往生を願った最期は幸せだったのでしょうか?

 その後、道長の息子、頼通と教通も娘を入内させますが、皇子を産むことができず、摂関政治から院政へ、そして武家政権へと政治の実権が移っていくことになります。

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