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紫式部と清少納言の晩年は不幸だったのか!?

清少納言と紫式部の絶頂期

 990年に道隆の娘である定子が入内し中宮となります。定子に仕えた清少納言にとっての絶頂期であったといえます。

 ところが995年に道隆が亡くなり、翌996年に定子の兄である伊周、隆家が花山院事件によって左遷されます。定子は皇子を産むものの、1000年に亡くなったため清少納言の宮中生活も終わりを告げます。

 その後一気に道長の時代になり、999年に道長の娘である彰子が入内し、その後1005年頃から紫式部は彰子に仕えましたが、この時代が紫式部にとっても人生の絶頂期であったでしょう。

 清少納言が宮中を退出したあとに紫式部は彰子に仕えていますので、2人が宮中で顔を合わせたことはなかったようです。

 さて2人の晩年についてですが、実は当時は女性の経歴についての記録が少なく、式部も清少納言についてもよくわかっていません。

 一般的に、2人とも煌びやかな宮廷生活とはかけ離れた寂しい晩年を送ったといわれていますが・・・

清少納言の晩年

 清少納言については落ちぶれてあばら家に住んでいたといわれ、ある貴族がその家の前を通りかかり、「清少納言も落ちぶれたものだ」というと、尼の格好をした清少納言が鬼のような形相で、「駿馬の骨を買った者もいる」と言い返したといいます。

 これは中国の故事によったもので、立派なものは形が変わったとしても価値があるということで、どんなに老いても自分の才能は変わらないということを表しており、勝気な清少納言らしい伝承だと思います。

 そのほか、賊が家に入ったときに、着物の裾を捲り上げて女だと証明したとの逸話も残っています(男と間違われるような風貌になっていたのでしょうか)

 ただ、晩年は定子が葬られた鳥辺野陵が間近に望まれる洛東月輪に隠棲したと伝えられます。

紫式部の晩年

 一方の式部については、道長と彰子の関係がこじれた影響で宮廷を退出し、その後はこれといった作品を残すこともなく長和3年(1014)に亡くなったといわれます。

 晩年について判然としないことから、一般的には侘しい生活を送っていたのではないかといわれますが、果たしてそうでしょうか?

 式部の死後、なんと妄語戒(嘘偽りをいってはならないとの戒め)を犯したため地獄に落ちたとの噂が広まったとのことです。

 これは、式部の才能に嫉妬したり活躍を否定したい人々が流したものだと思われます。

 この時代、不幸な死に方をした人は怨霊になると考えられ、菅原道真のように、怨霊化しないように死後あがめられたり、祀られたりしていました。

 もし式部の最後が不幸なものであったならば、死後おとしめるようなことは祟りをおそれて口にされなかったはずであり、逆に考えると「地獄に落ちた」との噂が流されたということは、平穏で幸せな晩年を過ごしたのではないでしょうか?

 清少納言についても同様で、惨めな老後だったというのは嫉妬による流言で、穏やかな隠棲生活を送ったのでは・・・

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