前回(紫式部の家族1~家系・父藤原為時・母藤原為信女・弟藤原惟規)に続いて、式部の家族を紹介します。
紫式部の夫 藤原宣孝
「光る君へ」では佐々木蔵之介さんが演じます。
式部と同じく藤原冬嗣を祖としており、同族になります。宮中の役職や筑前、備中、備後、周防、山城等各地の国守を歴任し、式部と結婚したのは長保元年頃で、宣孝は既に四十路になっていました。
既に幾人かの女性と婚姻しており、式部も当時の「通い婚」の妻の一人でした。
式部との間の娘大弐三位のほか、藤原隆光ら5,6人の子供がいたようです。(尊卑分脈には式部とその子を合わせて妻4人子6人と記録されているようです)
長保2年に宇佐神宮への勅使を務めるなど、婚姻後も元気に活躍していたようですが、長保3年4月に死去していますので、式部との婚姻はわずかな期間であったと思われます。
そのわずかな婚姻期間も、他の女性との関係も盛んだったようで、おそらくイケメンだったのでしょう(>_<)
清少納言は枕草子の「あはれなるもの」の項に、
と記しており、派手好きでもあったと思われます。なんとなくどんな人か想像できますね(*_*;
紫式部の娘 賢子(大弐三位)
大弐三位という通称は夫の官名と自身の官位からきており、名は賢子といいます。
式部が宣孝と結婚した翌年の長保2年(1000)に生まれたといわれています。翌長保3年(1001)には宣孝が死去していますので、式部とは逆で母のみに育てられたことになります。
母式部に続いて一条天皇の后彰子に仕えていますが、恋に関するいくつもの詩を残し、母と違い恋多き女性でした。
藤原道長の甥である藤原兼隆(藤原道兼の子)と婚姻し一女を生んでいますが、兼隆とはその後別れているようです。
二十代半ばで親仁親王(後冷泉天皇)の乳母となり親王を育て、三十代半ばで正三位大宰大弐高階成章と結婚し、一男一女を生んでいます。
賢子が五十代半ばのときに後冷泉天皇が即位した後には、天皇乳母の慣例により典侍(女官の実質的トップ)に任ぜられ、従三位の位を得ます。
源氏物語の一部は賢子の作によるものとの説や、源氏物語と同様の架空の物語「狭衣物語(さごろもものがたり)」の作者との説もあります。あくまでも古来からの説の一つですが、歌人として名を残しており、母譲りの文才があったことは間違いないようです。
百人一首にも
有馬山 いなの笹原 風ふけば いでそよ人を 忘れやはする
の歌が残されています。
紫式部の子孫
式部の子は賢子のみですが、賢子の子高階為家から子孫が広がっています。
なお、為家の次男為賢の子孫である源在子が、承久の乱で有名な後鳥羽天皇の后となり土御門天皇を生んでいることから、現在の天皇家にも式部の血脈を残していることとなりますね。
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