本当の信長はどのような性格だったのでしょうか?以前、「織田信長の恐怖エピソード」を紹介しましたが、今回は信長の「優しい」エピソードを紹介します。
山中の猿~弱者に優しい信長
美濃と近江の堺の山中宿という所で、「山中の猿」と呼ばれる体の不自由な乞食がおり、信長は京都へ往復する度に何度か目にしていました。
信長が、
「普通乞食というものは住所が一定せずあちこちを転々とするのに、この乞食は何時もここに居る。どういう乞食なのか」
と尋ねると、土地の者は
「この乞食は、山中宿で源義経の母常盤御前を殺した盗賊の子孫で、代々ここで乞食をしています」
と答えたそうです。それを聞いた信長は憐れに思い、この乞食に木綿20反を与えた上、土地の者に対し、
「この男に少しずつ食物を与え凍え飢えないようにしてやれ」
と命じたといわれています。
なお、宣教師ルイス・フロイスが信長について述べた中に、「正義及び慈悲の行いを好む」と記されたものがあります。(耶蘇会史日本通信)
北向きは不吉?
ある一揆勢との戦場での本陣において、一瀬久三郎という家臣が信長の兜を北向きに置いてしまったそうです。北向きは不吉とされていたため、家老の林秀貞が一瀬を叱ったところ、信長が
「此度の敵は一揆勢なれば何方から来るのか分からん。そのままでよい」
と言ったため、一瀬は面目を失わずにすみます。やがて実際に一揆勢が北側から攻めてきますが、信長の言葉に助けられていた一瀬は真っ先に敵に立ち向かい一番槍の功名を立てて、信長から感状を与えられたそうです。
寧々への手紙~禿げ鼠の年賀状
秀吉の妻寧々(ねね)への有名な手紙です。信長へ御機嫌伺に参上したねねが秀吉の女好きを愚痴ってしまったことへの手紙だといわれています。
仰せのように、この度はこの地に初めて来られてお会いすることができたことを大変うれしく思います。
殊に頂いた土産は、色々と美しく目にも余り筆に尽くせないほどです。お祝いとしてこちらから何か遣わそうと考えていたところ、あなたの方からあまりに見事な品々を頂き、今回はこちらからあなたに渡すのは思いとどま今度改めて差し上げることとします。
今回の土産は素晴らしい物ばかりでしたが、それよりもあなたの美しさに驚きました。以前より数段美しさに磨きがかかっているようです。
藤吉郎はあなたのことを妻として不足であると申しているそうですが、今後どのように相手を探してもあの禿げ鼠にはあなたのような相手は見つからないでしょうから、これから先は身持ちを良くし奥方らしく堂々として、やきもちなどは焼かないようにすることです。
なお、言いたいことがあっても我慢した上で藤吉郎の面倒を見てやってください。拙いこの手紙を藤吉郎にも見せてやってください。
一家臣の妻に対して丁寧に気持ちを込めて書いていることがわかる手紙で、信長の繊細な性格が垣間見えるものですね。
ねねがそのような愚痴を言える信頼・関係性があったのも意外ですよね。
我が子を大事にする信長
戦国大名は、側室を多く抱えて家の繁栄のため子供をたくさん作り、女子は政略のために敵対大名やライバル大名に人質の意味を含めて嫁ぐなど、道具として使われることが多くありました。
信長も、妹お市の方を浅井長政に嫁がせるなどしていますが、娘たちの扱いは異なり、信頼のおける家臣や公家に嫁がせるなどして身に危険が及ばないようにしているのです。
長女の五徳姫だけは徳川家康嫡男信康に嫁がせていますが、圧倒的な力関係があり危険が及ぶことはなかったでしょう(事実信康が切腹した際も五徳姫は無事に織田家に返されています)
ちなみに娘たちが嫁いだ相手は、
・松平信康
・蒲生氏郷(家臣)
・筒井定次(家臣:従属大名筒井順慶の養嗣子)
・前田利長(家臣:前田利家の嫡男)
・丹羽長重(家臣:丹羽長秀の嫡男)
・二条昭実(公家:関白)
・水野忠胤(家臣:家康の従兄弟)
・万里小路充房(公家:大納言)
・豊臣秀吉(九女が本能寺の変後に側室とされたが二条昭実室と同一説もあり)
・中川秀政(家臣)
・徳大寺実久(公家:権中納言)
となっています。
なお、息子達のことも大事に(甘く?)扱っているようです。
次男の信雄が信長に無断で伊賀攻めを行い、しかも敗北した際には、さすがに信長も叱責したようですが、結局信雄はそのままでした(家臣ならばただではおかなかったでしょう((;゚Д゚))。
岐阜岩村城主としていた五男の御坊丸が、武田家臣秋山信友により甲斐武田家へ人質として送られてしまった(信長は意図していなかった)ことを信長は深く恨んでおり、後に秋山信友とその妻おつやの方(信長の叔母)は信長により惨殺されています。
人々から恐れられてた信長も実は子煩悩だったようですね(^_^)
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