郡上一揆は江戸中期に美濃国の郡上八幡で起こった百姓一揆ですが、百姓側の犠牲だけでなく、藩主金森家の改易、幕閣の大量処分など大きな爪痕を残した一揆です。
評定で活躍した田沼意次がその後台頭するきっかけにもなったといわれています。
郡上藩財政の窮乏と検見法の強行
延享4年(1747)、郡上藩主金森頼錦(かなもりよりかね)は将軍の近臣である奏者番に任命されます。奏者番は大名や旗本らが将軍に拝謁する際の取次ぎや、法要や大名家の不幸に際して将軍の代参を行う等の役目を担っており、当時出世の登竜門となっていました。
しかし、諸大名との交際の為に出費が増大し、また、元来文化風流を好んだ頼錦は益々華美な生活を送るようになり、藩財政は困窮していきます。
そのため郡上藩では、臨時の税に当たる御用金の徴収や様々なものに対する課税強化などの策を講じていきますが、財政の改善には至らず窮乏の一途を辿り、領民の不満もたまっていったのです。
そのような背景の中、宝暦4年(1754)、郡上藩は増税のため、年貢の徴収方法を定免法(一定の税率)から検見法(収穫高に応じた税率)に切り替えることとします。
検見法は凶作の場合は減税となるなど、定免とどちらが百姓に有利か一概にはいえませんが、施政者側の意向次第で税率が決まる側面があります。
今回の場合は増税を目的としたことが明らかであったため百姓の不満が噴出し、年貢徴収方法を変更しないよう庄屋たちが藩に嘆願書を出します。
しかし聞き届けられることはなかったため、各村の代表が集まって話し合い、百石で3人の割合で人を出して、同年8月約1000人が城下町へ強訴をかけたのでした(軍兵の動員割合と似ていますね)。
驚いた藩側は、在地の家老達が百姓達に定免法の維持を約して連名で証書を出し解散させます。しかし江戸藩邸では納得せずに、頼錦の奏者番としての地位や縁戚関係を利用し老中本多正珍(まさよし:駿河田中藩主:本多正信の弟正重の系統)や寺社奉行本多忠央(ただなか:遠江相良藩主:本多忠勝の系統)ら幕閣の力を借りて増税を強行しようとしたのです。
翌宝暦5年(1755)7月、幕閣の内意を受けた幕府美濃郡代青木次郎九郎は、郡役所に郡上領の庄屋たちを呼び出し、検見法を承諾するよう申し渡します。
郡上藩領のことに対し幕府の役人が介入することは異例のことです。
江戸での直訴へ
このことを知った百姓たちは激怒しますが、まずは代表者が江戸藩邸へ直接訴え出ることにします(まだ藩主を信じていたのでしょう)。
各村の代表者40人が郡上藩江戸藩邸に訴え出ますが、聞き届けられるはずもなく藩邸に監禁されてしまいます。いつまでたっても代表者たちが帰ってこないため調べにいったものまで捕まえられてしまうというおそろしいことに・・
ここに至ってついに、幕府へ直接訴え出ることにし、同年11月、老中酒井忠寄(ただより:出羽庄内藩主:酒井忠次の系統)の籠に直訴するのでした。
幸いにも直訴は聞き届けられ、幕府での審議も始まりましたが、なかなか話が進まないうちに、郡上藩領では藩側による入牢・手鎖・村預けなどの弾圧や切り崩し工作も行われ、百姓側も徹底抗戦派(通称「立百姓、立村」)と藩への恭順派(通称「寝百姓、寝村」)に分かれてしまいます。
江戸での裁定を待つ立百姓たちでしたが、藩の弾圧や寝百姓側への寝返りなど厳しい状況に耐えていったのでした。
宝暦8年4月、追い詰められた立百姓側は起死回生を目指し江戸の目安箱に訴え出ます。訴えは将軍家重の目にとまり、当時側用人であった田沼意次や老中首座の堀田正亮らが審議を断行することになったのです。
一揆の結末
幕閣内の勢力争いも背景に、同年のうちに郡上藩に肩入れした老中本多正珍が逼塞、本多忠央が改易されたほか、大目付や勘定奉行も処分を受ける前代未聞の事態となり、藩主金森家も改易となります(一揆を発端として大名が改易されるのは島原・天草の乱以来です!)。
また、百姓側も首謀者らが打首獄門となってしまい、領内も立百姓側と寝百姓側の因縁が残るなど大きな傷を残しました。
金森頼錦は盛岡藩南部家に預けられ5年後の宝暦13年(1763)に死去しますが、その後天明8年(1788)に頼錦の子頼興が蔵米1500俵を与えられ、金森家は寄合旗本として復活・存続することになりました。
なお、改易された本多忠央の後の相良藩主には田沼意次が入っています。
金森家の後に郡上藩主となった青山家が疲弊した領内を慰撫するために盆踊りを奨励したことが郡上おどりの起源ともいわれています。
年貢増収により幕府財政の健全化を図ろうとした勢力が衰退し、田沼意次ら商業資本の利益への課税推進派が台頭するきっかけになったとされており、一地方の事件ではなく、日本史上においても重要な事件となったのです。


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