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松平信康の妻徳姫(五徳)~築山殿・信康事件の後どうなった?

徳姫(五徳)と築山殿事件

 徳姫(五徳)は織田信長の長女で、徳川家康の嫡男信康に嫁いだ女性です。通説では、天正7年(1579)に、姑の築山殿と夫の信康の罪状を書いた「12か条の訴状」を父信長の元へ送り、それが原因となって姑と夫が死ぬことになったといわれてきました。

 ただ、近年の研究では、この「12か条の訴状」はのちに創作された可能性が高いとされており、築山殿の殺害と信康の切腹は、徳川家内部の派閥争いが原因だという説が有力視されています。ここでは、事件後の徳姫はどのような生涯を送ったのか紹介します。

事件後の徳姫

 事件後も半年ほどは岡崎城に住んでいましたが、天正8年(1580)2月20日に実家である織田家に戻るため、岡崎を出立します。その3日前の2月17日には、『家忠日記』に
「(天正八年)二月十七日丁亥おはり御新造様、美濃へ一圓に御越候とて、浜松殿岡崎へ御越候」
との記述があり、家康と岡崎城で会見したことがわかっています。

 また、同日記に
「二月十八日戊子岡崎へ越候て城へ出仕候。明後日廿日御新造様御くりに越候へ之由仰にて、ふかうす(深溝)かえり候」
「二月廿日庚寅御新造様送りに尾州おけはさま(桶狭間)迄越候」
とあり、松平家忠(深溝松平家4代当主)が家康の命令で徳姫を桶狭間まで送っていったことがわかります。

 信康との間には、4歳の登久姫と 3歳の熊姫の二人の娘がいましたが、二人とも岡崎に残しています。徳姫は近江国に移り住んで、父信長の保護下で暮らすことになります。

本能寺の変後の徳姫

 織田家に戻って生活を始めてからわずか2年後に「本能寺の変」が起きます・・そして、父信長が死去したことで、今度は次兄である織田信雄の元に身を寄せることになるのです。

 しかし、またしても五徳は安穏な生活を送ることができませんでした・・・
小牧・長久手の戦い」後に羽柴秀吉と和睦した信雄は、その忠誠の証として、徳姫を人質に差し出したのです。人質として京都に居住した徳姫は、そこで約6年間生活します。

 『顕如上人貝塚御座所日記』には、この時のことを
「三介殿(信雄)ヨリハ、妹岡崎殿ト云ヲ御出シアルナリ」
と記されています。

 天正18年(1590)、織田信雄が改易されると、母(生駒吉乃)の出身である生駒氏の尾張国小折に移り住んでいます。この生駒氏は、のちに尾張藩主となった家康の九男徳川義直に仕え、幕末まで代々家老職として存続しています。

 しばらく、尾張にいた徳姫でしたが、また京都に移住しています。これには秀吉の意向が働いていたようです。

関ヶ原の戦い後の徳姫

 慶長5年(1600)の「関ヶ原の戦い」後は、尾張国に行き、清洲城主松平忠吉の世話になります。忠吉は家康の四男で、夫信康の年が離れた弟なので、徳姫からみたら義弟にあたります。忠吉からは1761石の所領を与えられました。その後は京都で隠棲することになります。

 寛永7年(1630)、蜂須賀忠英と繁姫(両人とも徳姫の曽孫)の間に生まれた千松丸(徳姫の玄孫)の乳母の選定について、相談を受けています。72歳と高齢にもかかわらず、相談を受けるということは、しっかりした女性だったのでしょう。しかし、玄孫がいたとは驚きです‼

 寛永13年(1636)、当時としては非常に高齢の78歳で亡くなります。彼女の墓は信長の菩提寺でもある大徳寺・総見院にあります。義母にあたる信長正室の濃姫や信長側室のおなべの方らと並んで葬られました。

 こうしてみると、夫信康死後も徳川家から大事にされていたがわかります。この事実が、築山殿と信康の死に徳姫が無関係だったという証拠ではないでしょうか。

『幕府祚胤伝』から引用
「信康君自裁後、久在京師烏丸中御門之南油小路共、棲洛中間、於尾州岩倉、二千石被進、寛永十三年丙子正月十日、於京卒去、年七十八、葬紫野大徳寺中総見院、一天瑞寺、法名見星院香岩寿桂大姉」

徳姫の子孫は?

 徳姫が岡崎城を去って織田家に戻ったあと、残された二人の娘は、家康と側室西郡局によって養育されました。

 長女の登久姫は、信濃松本藩主の小笠原秀政、次女の熊姫は、播磨姫路藩主の本多忠政(本多忠勝嫡男)に嫁ぎ、譜代の名門や阿波徳島藩主蜂須賀家、肥後熊本藩主細川家など外様大藩にも血脈を残していくことになります。

 また、熊姫と忠政との間には、相当なイケメンで千姫(家康の孫娘)が一目惚れしたと伝わる本多忠刻が生まれています。やはり、織田家は美形の家系だったということでしょうか(^_^)

 徳川幕府最後の将軍となった15代将軍徳川慶喜も、徳姫の子孫にあたります。

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参考文献
『岡崎市史』
『幕府祚胤伝』柳営婦女伝叢 (国書刊行会本)