織田信長亡き後、天下の覇権を豊臣秀吉と争った信長の次男織田信雄は、小牧・長久手の戦いの後、どのような人生を送ったのでしょうか・・・・
秀吉による改易
天正18年(1590)の小田原征伐に信雄は豊臣軍の一員として従軍し、武功をあげます。しかし、戦後の論功行賞で秀吉から、尾張と北伊勢5郡から徳川家康の旧領5か国(三河・遠江・駿河・甲斐・信濃)への移封を命じられました。
尾張と北伊勢5郡の石高は約80万石、家康の旧領5か国は約150万石なのでかなりの加増です。決して悪くない話だと思うのですが、、、信雄は伊勢か美濃あたりに加増があると考えていたのでしょう。
予想外の秀吉からの命令を「父祖の地を離れたくない」という理由で拒否してしまいます。このことで秀吉の怒りを買った信雄は改易され、下野国鳥山に流罪となりました。そして、出家して常真と称します。
信雄も加増を辞退しただけで、まさか改易されるとは夢にも思っていなかったでしょう。また、元主筋という甘さもあったと思います。もしも、この時信雄が移封を受け入れていたら、秀吉はどうしたでしょうか。後々難癖をつけて所領を削っていった可能性が高いですが、20万石くらいの大名として存続させたのではないかと思います。
改易後の信雄~秀吉の御伽衆へ
その後、出羽国秋田、次いで伊予国へと流され、文禄元年(1592)に徳川家康の仲介でようやく赦免されます。
『寛政重修諸家譜』の信雄の項には
と記述されています。
その後、秀吉の御伽衆に加えられて大和国内に1万8千石を与えられ、大名に復活しました。肥前名護屋城にも兵1500を率いて着陣したといわれています。
再度の改易と復活~晩年と子孫
関ヶ原の戦いでは、大坂で中立的態度だったことから、家康から西軍に与したとみなされて、改易処分を受けます。しかし、大坂の陣では徳川方に味方して、戦後に大和国と上野国で合わせて5万石を与えられました。
信雄が上野国の所領で造った楽山園
晩年は息子に所領を相続させ、自身は京都で悠々自適な生活を送り、73歳の天寿を全うしました。
信長の子孫で明治維新まで大名として存続し、華族となった家は4家です。そのうち2家(柏原藩・天童藩)が信雄の系統です。
織田家の天下を簒奪した秀吉の豊臣家が滅亡し、自分の元同盟者であった家康が天下を取り、その孫が3代将軍となった時代まで生きた信雄の心境はいかなるものだったのでしょう。
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