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「本能寺の変」の原因~「四国説」とは

本能寺の変「四国説」とは

 明智光秀が「本能寺の変」を起こした動機にはさまざまな説がありますが、ここでは「四国説」を紹介します。「四国説」とは簡潔にいうと、織田信長による四国征伐を中止させ、長宗我部家を救うため、光秀が謀反を起こしたとする説です。

信長と長宗我部元親の同盟

 信長は当初、阿波の戦国大名三好氏と対立していました。土佐の長宗我部元親も三好氏と対立しており、そのため、利害が一致した元親と同盟を結んだといわれています。この元親と信長の同盟の取次役を務めたのが光秀でした。

 『元親記』によると、元親は天正3年(1575)に土佐を平定すると、信長から「四国の儀は、元親手柄次第に切取候へ」との朱印状をもらったとされています。また、嫡男弥三郎(のちの信親)の烏帽子親も信長が引き受けて、「信」の一字を与えています。『元親記』とは、寛永8年(1631)に元長宗我部家家臣の高島正重が著した元親の1代記(軍記物)です。

明智光秀と長宗我部元親の関係

 光秀と長宗我部家との関係は、取次役というだけではありませんでした。光秀の重臣斎藤利三と長宗我部元親に姻戚関係があったのです。斎藤利三は江戸幕府3代将軍家光の乳母として大奥で絶大な権力をもった春日局の実父にあたります。

 その斎藤利三の実兄に石谷頼辰という人物がいました。頼辰は利三と同じく光秀に仕えた武将です。石谷家は美濃国の守護土岐氏の一族で、室町幕府の奉公衆を務める家柄でした。頼辰は石谷光政に養子入りしており、 光政はのちに長宗我部元親に仕えて、次女が元親の正室になっています。

 つまり、利三の兄の義理の妹が元親の正室になって、嫡男の弥三郎信親を生んでいることになります。また、「本能寺の変」後に頼辰は長宗我部家に仕え、娘が信親の正室になっています。

同盟関係の変化

 このままの状況が続けば、後々は織田家と徳川家のような友好関係になっていったのではと思います。

 畿内では頑強に信長に抵抗していた三好康長が、天正3(1575)年4月8日、ついに降伏します。康長の降伏により、三好氏は畿内における勢力を完全に失いました。康長はのちに名物の三日月茶壺を信長に献上しています。

 茶人でもある康長が信長に重用されたことが、のちに長宗我部家が織田家と断交することになった遠因となります。

 その後、阿波三好家当主の三好長治が天正5年(1577)に滅亡し、残る三好一族は讃岐の十河存保のみという状況でした。もはや長宗我部家に対抗できないと考えた存保は信長に降り、織田政権傘下の大名となりました。

 存保が信長に降ったことで、三好氏という共通の敵はいなくなります。信長にとって、長宗我部家との同盟関係を継続させていく価値が薄れたのです。

元親四国統一へ

 一方、元親は信長から切り取り次第のお墨付きを得ていたので、四国統一を目指し、伊予国、阿波国、讃岐国へ侵攻していきます。天正8年(1580)までに阿波・讃岐の両国、伊予国の東半分も制圧していました。

 しかし、ここで思わぬ事態が発生することになります。元親は阿波国の侵攻において、三好康長の子康俊を服従させて、康俊の領地であった阿波国美馬と三好の2郡を長宗我部領としていました。しかし、信長の家臣として重用されていた康長が、信長に元親に奪われた領地の返還を願い出たのです。

 さらに元親に臣従していた康俊を康長が織田方に寝返らせます。そして、康長の願いを受け入れた信長は、なんと、、、土佐一国と阿波国の2郡以外の領土を明け渡し、臣従するようにと元親に通達してきたのです。

 元親としては、四国を平定するにあたって、信長からの援軍など無く、自力で領土を拡大してきました。当然、この理不尽な要求を拒絶し、これにより信長と敵対することになります。

信長と元親の関係

 これはあくまでも推測ですが、信長は最初から長宗我部家を従属大名の一人としかみていなかったのではないでしょうか。斎藤利三は信長からみれば陪臣の一人に過ぎません。家臣である光秀の家臣です。その点、娘を嫁がせた徳川家、妹を嫁がせた浅井家とは信長との関係が違いすぎます。

 徳川家、浅井家はまだ形式上は対等な同盟関係(実際は従属関係に近い)でしたが、長宗我部家は信長にとってみれば、四国にいる傘下の大名(筒井家や宇喜多家など)の一人ぐらいにしか考えていなかったのではないでしょうか。まさか土佐一国の大名が四国を統一できるとは、思ってもいなかったでしょう。

 それが、またたく間に領土を拡大し、四国を統一しつつある状況をみて、警戒するようになったと思います。他の傘下大名とは違うことを認識したのでしょう。

 元親も滅亡覚語で織田家と一戦交えるつもりだったのかと思われますが、、、

板挟みとなった光秀

 平成26年(2014)、林原美術館が所蔵する「石谷家文書」の中から元親から利三に宛てた書状が発見されました。この書状には主に以下のことが記されていました。

「長宗我部家は織田家に阿波国の城を明け渡す。しかし、海部城と大西城は土佐国の入り口にあたる場所だからこのまま長宗我部家の城として認めてほしい。」

 信長の要求を全面的に飲んでいます。元親にとってみれば、屈辱的ともいえる内容ですが、織田家と戦っても勝てる見込みがないことをわかっていたからこその決断でしょう。

 この交渉を担当したのが光秀でした。光秀としては、なんとかして戦を避けたいと悩んでいたでしょう。元親が信長に従う意向をみせてくれたので、ほっと胸をなで下ろしたと思います。

 しかし、それもつかの間、光秀は仰天する出来事を知ることになります。すでに信長は三男の信孝と丹羽長秀らに四国攻めを命じており、大坂から四国に軍勢が渡海する準備が整っていたのです。 信長と元親との取次役を務めていた光秀の立場がなくなったのは確かです。相当、悩んだことでしょう。

 元親の考えが信長の耳に入ったかどうかはわかりません。もしかしたら、元親の従属の意思を知ったうえで、それを無視して攻め滅ぼすつもりだったのかもしれません。

 そして、このことに責任を感じた取次役の明智光秀が「本能寺の変」を起こすことになります。

「四国説」について

 以上が「四国説」になります。ここまで紹介しましたが、個人的にはこの説は謀反の動機としては、考えづらいと思います。この中では、長宗我部元親と斎藤利三の関係が重要になってきます。

 長宗我部家と姻戚関係があるのは、光秀ではなく利三です。光秀自身の娘や妹が嫁いでいるというのならまだわかりますが、家臣の親類のために、明智一族郎党の存続を賭けてまで、主君に謀反を起こすでしょうか。

 また、取次役としての面目を失ったことが、謀反を起こす理由と考えるのは少し厳しい気がします。

 今後、「石谷家文書」のように光秀やその周囲に関連する新たな史料の発見があれば、「四国説」が「本能寺の変」の原因と裏付けることができるかもしれません。

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