さらさら越え~厳冬期の北アルプス越え!?
織田家の有力武将であった佐々成政は、信長存命中は柴田勝家率いる北陸方面軍に属し、本能寺の変後も勝家に従っていましたが、勝家が賤ケ岳の戦いで秀吉に敗れて自刃すると秀吉に降伏し、領国の越中(富山県)を安堵されていました。
その後、小牧長久手の戦いで秀吉と家康・信雄連合軍が争うと、秀吉を裏切って家康につき、秀吉についていた隣国の前田利家を攻撃しますが、前田軍の反撃に遭い膠着状態に陥っているうちに、秀吉と家康が和睦してしまいます。
八方ふさがりでどうしようもなくなった成政は、命懸けの賭けに出ます。世にいう「さらさら越え」です。
越中から厳寒期の立山(北アルプス)を越えて浜松の家康の元へ向かい、直接再挙を談判しようと考えたのです。
現代の装備・技術をもってしても過酷すぎる旅ですが、幾多の戦場をくぐり抜けてきた命知らずの男たちだからこその挑戦だったのでしょう。
成政は、藁みの、毛皮、かんじき等を身にまとい出発したと考えられますが、隠れての行動であったため正確なルート、人数等は分かっていません。
ボロボロになりながらもなんとか浜松の家康の元に着くことができた成政一行は、秀吉を挟み撃ちにしようと必死に家康に訴えます。しかし信雄が講和して戦う名目もなくした家康に再戦意欲はなく、北国で前田家一家すら破れない成政は相手にされません。
あきらめきれない成政は尾張の信雄の元へと足を運び訴えますが、こちらにも相手にされません。
失望のうちに再度雪山を越えて越中に帰ります。一説には数十人いた一行は雪山で次々に命を落とし、帰ってきたときには十数人にまで減っていたともいわれます。
黒百合伝説~嫉妬の行方
帰国後の成政に関する伝説を紹介します。
ボロボロになってようやく帰ってきた成政に追い打ちをかける出来事が起こります。
成政にはとても美しい早百合という愛妾がいましたが、あまりに成政が早百合にぞっこんであったため、他の妾たちの嫉妬の的になっていたそうです。
他の妾達はそろって、「成政の留守中に早百合は近習の若侍と密通していた」と訴えます。
訴えは早百合を陥れるための讒言でしたが、心身ともに疲れ果てて正常な判断ができなかったであろう成政は、有無を言わさず若侍を斬り捨てると、早百合を城外の河畔にある一本榎に吊り下げます。
早百合は無実を訴え続けるも斬殺され、更には早百合の親兄弟十数名も殺されて首を晒されてしまったのです。
早百合は死に間際に「よくもこのような仕打ちをしてくれたな。数年のうち立山に黒百合の咲く時、佐々家を祟り潰してくれようぞ」と呪いの言葉をかけながら絶命したとの言い伝えから、黒百合伝説と呼ばれるようになったそうです。
後に成政は秀吉から肥後一国を与えられますが、肥後国衆一揆の責を問われて切腹させられています・・・・
もう一つの黒百合伝説はこちら⇓
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