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江戸の暮らし~不義密通・心中の代償は!?

 江戸時代、太平の世となるに従い、武家、町家にかかわらず次第に人々の風俗は乱れ、不義密通、心中などが流行するようになります。

 その行為者たちはどのような扱いを受けたのでしょうか!?

不義密通の代償~その場で斬られたのは本当?

 明暦元年(1655)の江戸町中定では、
「他人の妻に通じた者はその場において男女共に討ち留めてよろしい。又それを訴え出れば取調の上男女とも同罪にする」
とされています。

 「寝髪を押さえる」という言葉は姦通の現場を押さえるとの意味で、「重ねて置いて四つにする」との言葉はその場で殺すとの意味で使われたそうです。

 享保9年(1724)の法でも、人殺しの条に
「確かな証拠があって密通している男女を切り殺した夫、密通を持ち掛けた男を切り殺した妻は無罪」
と規定されています。

 これが元文(1736~41)になると、
「直ちにその場で押さえて斬ることは差し支えないが、訴え出た場合は姦夫姦婦は四民の身分を剥奪」
となり、大分軽くなっています。

 なお次の寛保(1741~44)では、
「姦夫姦婦を殺した本夫は無罪、姦夫姦婦は死罪、主人の妻に通じた男は獄門、女は死罪、夫ある女を強いて不義をした者は死罪(夫のない女の場合は重追放)」

とまた重くなっているようです。

 ただ、全てこの通りになっていたかというとそうではなく、法令の制定はあまりに姦通が多かったので重罪と定めて抑止しようとしたためで、実際は「内済」で済ませるケースが多くなっていったそうです。

 「内済」というのは「間男の首代」であり不倫の慰謝料で済ませることで、上方では「さわり三百」(銀300匁:5両)、江戸では「間男7両2分」(金大判1枚)が相場とされました。

 なぜ金で済ませるようになったのかというと、太平の世になるにつれ世間の風俗が乱れあまりに多くなったとともに、5代将軍綱吉の「生類憐みの令」により、とにかく殺生はよくない、手討ちであっても覚えが悪いとの風潮になったことが挙げられるといわれます。(/ω\)

心中の代償~裸での晒しもの!?

 不義密通だけでなく、江戸中期以降は、吉原の遊女と客など、男女の心中が流行します。

 主君や親への仁義忠孝以外の感情であり、幕府としてはそのようなものが流行ることは決して好ましいことではなかったことから、何とか防止しようと様々な施策を打ち出します。

 まずは心中を美化させないよう、心中を題材とした芝居を禁止し、また、「心中」という言葉も美化されるとして、「相対死」(あいたいじに)と称するようにします。

 更に、心中した死体は裸にして晒しものにします。心中に失敗した場合は、2人を3日間晒しものにした挙句、市民権を剥奪し乞食として扱い、心中し損ない片方が生き残った場合、一旦治療を加え平癒させた上で、殺人犯と同様に「下手人」として斬首されました。

 なお、心中死体の晒しものは見物人がおびただしく混乱したためか、江戸後期では取りやめになったようです。


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