立花誾千代(たちばなぎんちよ)は、有名な立花道雪の一人娘で、永禄12年(1569)に筑後国(現福岡県)で生まれています。
天正3年(1575)、誾千代がわずか7歳のときに、道雪は家督を誾千代に譲り、誾千代は立花山城の主となっています。道雪は大友家の宿老でしたが、既に60歳を超えており、早く立花家の家督を託したかったのでしょう。
そして、天正9年(1581)、同じく大友家の宿老であった高橋紹運に何度も頼み込み、優れた若武者であった長男宗茂を養嗣子とし誾千代の婿に迎えます。
宗茂が立花家の家督を継いで立花山城の主となったので、誾千代が女城主であったのは子供時代の約6年でした。まだ道雪も健在であったため形式的な主であったと思われますが、誾千代自身も鎧を身にまとい侍女達と共に戦に備えていたようです。
その後道雪も亡くなりますが、天正15年(1587)に九州平定を果たした秀吉により宗茂は柳川13万石の地を与えられます。
立花山城から柳川城へと移りますが、誾千代は柳川城の宗茂とは一緒に住まずに城近くの宮永というところに居を構え、宮永殿と呼ばれるようになります。
一緒に住まなかったのは夫婦不仲であったためといわれています。二人の間には子供もいませんでした。
関ヶ原の戦いで宗茂は西軍につき、戦いを終えて柳川に帰り着いた際には誾千代が出迎えた記録が残っています。不仲であったとしても筋は通す女性だったのでしょう。
西軍だった宗茂は改易となり柳川城も東軍だった加藤清正に明け渡されますが、清正が柳川城に入ろうとした際の逸話があります。
清正が柳川への案内役に道筋を尋ねたところ、
との説明であったため、宮永を避けてもう一つの道で柳川城に入ったそうです。
清正と宗茂は朝鮮の役でも共に戦っており仲が良かったようで、改易後の宗茂は一旦肥後の清正の元に身を寄せていますが、やはり誾千代は宗茂と行動を共にせず、熊本城下から遠く離れた玉名郡腹赤という所に居を構えます。
清正は誾千代にも気を配り米などを送ったりしているようです。
それから2年後の慶長7年(1602)に誾千代は病で亡くなります。同地に葬られますが、誾千代の墓は形から「ぼたもちさん」と呼ばれ、地元から大事にされているそうです。
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