お田鶴の方(おたづのかた)は、今川家の家臣で曳馬(引間)城主であった飯尾連龍の妻で、夫の死後女城主となって城を守り、最後は徳川家康に攻められて城を枕に壮絶な討死を遂げ、椿姫と呼ばれるようになったと伝わる女性です。
お田鶴の方の家も大名今川家も絶えて記録がありませんので正確な生涯はわかっていませんが、勇敢かつ悲劇的な最期であったためか数々の言い伝えが残っています。
お田鶴の方は今川家の重臣であった鵜殿長持の娘として、天文19年(1550)に生まれたといわれます。母は今川義元の妹であり、家康の妻で有名な築山殿とも従姉妹にあたります。
天性すぐれて美しく怜悧(利口)なことも尋常でなかったともいわれます(蛇塚由来記:落城秘怨史)
若くして、今川家の重臣で曳馬城主であった飯尾連龍に嫁ぎ、子ももうけていたようです。
そのころ主家の今川家は、義元が桶狭間の戦いで死んで子の今川氏真の代になっていますが、家臣の離反が相次ぎ、家中疑心暗鬼になって同士討ちや裏切りが多発する末期的状態に陥っていました。
そのような中、夫の連龍も氏真から裏切りを疑われ、曳馬城にも討手が攻め寄せます。連龍は討手とよく戦って逆に撃退しますが、その後氏真の元へ弁明に行った際に殺されてしまいます。実際に連龍が今川家を裏切ろうとしていたのかどうかは分かりません。
連龍の死をもって今川家から飯尾家は許されることとなりますが、子はまだ幼かったっため、家臣の補佐を受けながら、お田鶴の方が曳場城主として家臣を統率し、城下を治めていくことになったのです。
次々に有力武将が今川家から離反していく中、今川一族出身のお田鶴の方は今川家への忠義を貫いていきます。この頃の逸話として、今川家からの裏切りの疑いのあった近くの国人領主井伊直平(井伊直虎の曾祖父)を、お田鶴の方が毒殺したといわれています。
曳馬でのお田鶴の方の治政は優れており、家臣や民もよく従ったといわれ、一旦平和が訪れます。
しかし平穏な日々も長くは続かず、今度は、勢力を拡大中の徳川家康の手が及んできます。
家康は「おとなしく徳川家に従えば皆の命を助け本領を安堵する」と何度か使者を送ったようです。
しかし、若くて勝気な田鶴の方は「女だからといって侮るな」と使者を追い返し、今川家への忠義を貫きます。(もう少し年を取っていればうまく立ち回ることもあったかもしれませんが・・・)
永禄11年(1568)12月、しびれを切らした家康は数千人の軍勢を送って城を取り囲み、城内にはお田鶴の方以下300人の城兵が立て籠もりました。
徳川勢は一気に城を攻め立てますが、歴戦の城兵はお田鶴の方指揮の下、数日間頑強に抵抗します。しかし大軍を前に次々と郭が落とされ、やがて本丸を残すのみとなってしまいます。
覚悟を決めたお田鶴の方は、朱色鮮やかな緋縅の鎧と兜を身に着けて、赤襷と白鉢巻の侍女18人のほか残った城兵を従え、城門を開けると薙刀を振るって徳川勢に突っ込み、決死の城兵は徳川勢を大勢斬り倒しましたが、最後には全員壮絶な討死を遂げたそうです。
お田鶴の方の死を知った築山殿は声を上げて泣き、ねんごろに彼女を弔い、遺骸を埋めた塚の周りに侍女にも手伝わせて百余株の椿を植えたため、後にお田鶴の方は椿姫ともよばれるようになりました。
曳馬城跡に築かれた浜松城
なお家康は、交通の要衝の地にあった曳馬城を浜松城に名を変えて本拠地にしますが、築山殿は家康とは別に、長男の信康とともに岡崎城を居とします。
家康の今川家からの裏切りや、お田鶴の方ら旧知の者の死が積み重なり、家康と築山殿の関係は完全に冷え切っていたのでしょう・・・・・
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