豊臣秀吉は、織田信長に仕える前の流浪時代の数年間、今川家臣で頭陀寺城主であった松下長則、(加兵衛)之綱父子に奉公していました。
秀吉は才覚を発揮して長則らにかわいがられましたが、周囲に妬まれた結果やむなく松下家を出たとされています。一説には主君から鎧を買う代金を預かったまま持ち逃げしたとも(>_<)
松下家は今川家没落後、紆余曲折を経て少禄で徳川家康に仕え、細々と暮らしていたようです。
一方の秀吉は信長死後の賤ヶ岳の戦いで勝利し天下人への道を切り開いていましたが、旧主であった松下家の恩を忘れておらず、天正11年(1583)に遠江から加兵衛を呼び寄せて、丹波、河内などで3000石を与えたのです。
之綱は秀吉と同じ齢で当時四十半ばになっていましたが、秀吉はわざわざ松下家の人々を探させたともいわれます。
秀吉としては旧恩に報いたのですが、没落していた松下家は天下人豊臣家の武将として一躍表舞台に立つこととなったのでした。
九州征伐の際には加兵衛は前備として従軍しますが、秀吉は前備の諸将に対し、
「松下加兵衛事、(秀吉が)御牢人の時、忠節の仁(人)に候間、右儀に、おのおのと同然とはこれあるまじく候」
と書状をしたため、秀吉にとって特別な人物であることを知らしめて配慮するよう指示しています。
加兵衛には九州征伐後に3000石、小田原征伐後にも1万石が加増され、最終的には松下石見守之綱として遠江久野1万6千石の大名となったのです。今川家没落後に細々と生きながらえていた松下家は、故郷の遠江に大名となって戻ったのでした。
之綱は慶長3年(1598)に死去していますが、秀吉とは同じ年に生まれ同じ年に死んでいます。ちなみに父長則は天正18年(1590)に死去していますので、長則も秀吉の栄達を見届けていたことになりますね。
之綱の跡は子の重綱(妻は賤ヶ岳7本槍の1人加藤嘉明の娘)が継ぎ、重綱の跡を継いだ子の長綱は陸奥三春藩主となっていましたが、寛永21年(1644)に「狂乱」したとして改易されます(母の実家である加藤家の改易の連座ともいわれます)。
長綱は妻の実家であった土佐藩主山内忠義に預けられ土佐で没しますが、山内家とは一豊が掛川城主であった頃から同じ豊臣系での遠江の大名として縁が深かったようで、松下家改易後に山内家に召し抱えられた松下一族もいるそうです。
長綱の子長光は忠義の取りなしにより万治元年(1658)に旗本となり、子孫は代々3000石の寄合旗本として存続しています。
ちなみに徳川四天王の一人井伊直政は、幼少期に父直親を謀反の疑いで今川氏真に誅殺された後、母が再嫁した松下清景に庇護されていましたが、清景は加兵衛の義兄に当たります。


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