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豊臣秀吉の恩返し~松下加兵衛之綱

秀吉の恩人松下加兵衛之綱

 豊臣秀吉は、織田信長に仕える前の流浪時代の数年間、今川家臣で頭陀寺(ずだじ)城主であった松下長則、(加兵衛)之綱父子に奉公していました。長則は槍術に優れていたといいます。

 秀吉は才覚を発揮して長則らにかわいがられましたが、周囲に妬まれた結果やむなく松下家を出たとされています。一説には主君から鎧を買う代金を預かったまま持ち逃げしたとも(>_<)

 松下家は、今川家重臣飯尾家に仕えていましたが、義元が桶狭間の戦いで討死し今川家が没落していく中、今川家臣が次々と離反していきます。

 飯尾家も裏切りを疑われ今川家から攻められますが、その際、松下家の頭陀寺城も焼討に遭っているようです。

 その後は、徳川家康に仕え、永禄12年(1569)、徳川軍の一員として、今川氏真が立て籠もる掛川城攻めに参加し戦功を挙げたとされていますが、少禄で細々と暮らしていたようです。

 一方の秀吉は信長死後の賤ヶ岳の戦いで勝利し天下人への道を切り開いていましたが、旧主であった松下家の恩を忘れておらず、天正11年(1583)に遠江から加兵衛を呼び寄せて、丹波、河内などで3000石を与えたのです。

 之綱は秀吉と同じ齢で当時四十半ばになっていましたが、秀吉はわざわざ松下家の人々を探させたともいわれます。

 秀吉としては旧恩に報いたのですが、没落していた松下家は天下人豊臣家の武将として一躍表舞台に立つこととなったのでした。

 天正3年(1575)の長篠の戦い頃には秀吉に仕えていたとの説もありますが、この年代の松下家のことははっきり分かっておらず、それほど落ちぶれていたともいえます。

 九州征伐の際には加兵衛は前備として従軍しますが、秀吉は前備の諸将に対し、

「松下加兵衛事、(秀吉が)御牢人の時、忠節の仁(人)に候間、右儀に、おのおのと同然とはこれあるまじく候」

と書状をしたため、秀吉にとって特別な人物であることを知らしめて配慮するよう指示しています。

 加兵衛には九州征伐後に3000石、小田原征伐後にも1万石が加増され、最終的には松下石見守之綱として遠江久野(くの)1万6千石の大名となったのです。今川家没落後に細々と生きながらえていた松下家は、故郷の遠江に大名となって戻ったのでした。

 之綱は慶長3年(1598)に死去していますが、秀吉とは同じ年に生まれ同じ年に死んでいます。ちなみに父長則は天正18年(1590)に78歳で死去していますので、長則も秀吉の栄達を見届けていたことになりますね。

その後の松下家

 之綱の跡は子の重綱(妻は賤ヶ岳7本槍の1人加藤嘉明の娘)が継ぎます。

 重綱は天正7年(1579)の生まれで、幼少期は豊臣秀次に仕えており、之綱死後は久野1万6千石を継ぎます。

 関ヶ原の戦いでは東軍に属し、自ら敵兵と奮戦して功を立てますが、慶長8年(1603)に幕府の許可を受けないまま居城の石垣を築いたとして、常陸国小張(おばり)に移封させられてしまいました。

 しかし、大坂の陣では本多忠朝(ただとも・本多忠勝の子)に属して、天王寺の戦いでは自ら槍を手に先頭で戦って戦功を挙げて、戦後下野国那須郡で2万8百石を与えられます。

 さらに、寛永4年(1627)には陸奥国二本松5万石に加増移封されますが、同年死去しています。

 重綱の跡は子の長綱が継ぎましたが、重綱死去時、まだ幼年であったことから、2万石を減らされ陸奥国三春3万石に移封となってしまいます。

 さらに、寛永21年(1644)には「狂乱」したとして改易されてしまったのです(母の実家である加藤家の改易の連座ともいわれます)。

 長綱は妻の実家であった土佐藩主山内忠義に預けられ土佐で没しますが、山内家とは一豊が掛川城主であった頃から同じ豊臣系での遠江の大名として縁が深かったようで、松下家改易後に山内家に召し抱えられた松下一族もいるそうです。

 長綱の子長光は忠義の取りなしにより万治元年(1658)に旗本となり、子孫は代々3000石の寄合旗本として存続しています。

 ちなみに徳川四天王の一人井伊直政は、幼少期に父直親を謀反の疑いで今川氏真に誅殺された後、母が再嫁した松下清景に庇護されていましたが、清景は加兵衛の義兄に当たります。


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