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明智光秀の孫「織田昌澄」の生涯~大坂入城後の奮戦から江戸幕府旗本へ

 明智光秀の孫で、大坂の陣では豊臣方に加わりながら、戦後江戸幕府旗本となった織田昌澄の波乱の生涯について紹介します。(別名は信重、通称は庄九郎、三左衛門、主水)

昌澄の父織田(津田)信澄

 まずは昌澄の父信澄についてです。信澄の父(昌澄の祖父)は織田信長の同母弟で信長と争い謀殺された織田信勝(信行)です。

 信勝死後、子の坊丸(後の信澄)は助命され、柴田勝家に養育されます。

 後に浅井家旧臣磯野員昌(かずまさ)の養嗣子となり、信長の有力武将として活躍、天正6年には近江大溝城主となります。

 信澄は明智光秀の四女と結婚し、その長男として昌澄が生まれたのです。母は明智光秀とその継室妻木煕子の娘のため、昌澄は光秀と煕子の外孫に当たります。

 天正10年(1582)5月、織田家の四国征伐軍に加わった信澄は、大坂で石山本願寺跡の千貫櫓に入ります。

 しかし本能寺の変に際して明智光秀の娘婿であったことも相まって謀反を疑われ、城外に兵を残したまま千貫櫓にいた信澄は、織田信孝・丹羽長秀に討たれ命を落としたのです。

【寛政重修諸家譜】織田信澄
・・・右府事あるののち神戸信孝丹羽長秀等信澄をうたがひて俄にこれをせむ。このとき従兵皆城外にあり、信澄勇なりといへども兵少うして多勢に敵しがたく、ついに千貫櫓にをいて自殺す。年二十八或いは二十五。室は明智日向守光秀が女

本能寺の変後

 父が殺された時、昌澄はまだ2歳でしたが、母(光秀の四女:ガラシャは三女)は懐に昌澄を入れて藤堂高虎を頼り、庇護を頼んだのです。

 高虎は信澄の養父であった磯野員昌(かずまさ)に仕えていたことがあり、その縁を頼ったのです。余談ですが磯野員昌の子孫は藤堂家に仕えて存続しています。

 そして高虎は願いを受け入れて昌澄を大事に養育します。そのまま藤堂家で成長した昌澄は、成人後蘆尾庄九郎と名付けられ藤堂家臣となり、朝鮮出兵にも従軍したのです。

豊臣家臣となる

 その後、秀忠の娘千姫が大坂城の豊臣秀頼に輿入れする際、昌澄の母は光秀の娘だが人物が優れているとのことで、千姫のお附きとして上臈として召し出されます。

 そのため、昌澄も母と共に大坂へ行き、秀頼の旗本として召し抱えられることとなり、織田主水信重と名乗ったのです。このときは百人扶持を与えられたといいます。

 昌澄はそのまま秀頼に仕えていましたが、ついに大坂の陣が起こり、もちろん昌澄も豊臣の武将として参陣します。

 そして天満口(天王寺の間違いか)での激戦の中で、昌澄が残兵をまとめて城中に撤退するのを、遠目で家康が見ていたといいます。

 家康は、「この期に及んでかくの如き働きをするのは誰だ?」と側へ尋ね、御使番が「武光式部でしょうか」と言うと、家康は

「赤白段々の旗なので織田家の者だろう。織田家は淀殿の外族なれば、籠城はもちろんのことで恨むべきではない」

との言葉を発したそうです。

 その軍功により秀頼からは「国光の太刀」、奥州藤原秀衡が所蔵していたとされる「獅子紋の鞍」、「陣羽織」等を与えられました。

 なお、昌澄の長男の勘七郎は大坂の陣で討死しています。

幕府旗本となる

 大坂城落城後、徳川方に出頭するものの、家康は天満口での昌澄の武功を認め、罪を許して諸国徘徊を認めます。

 おそらく高虎や千姫の取りなしもあったのではないでしょうか。その際、剃髪して道半斎と号します。

 元和4年(1618)11月、2代将軍・徳川秀忠に召し出され、近江国甲賀郡内などで二千石を与えられ寄合旗本となります。これは高虎、義伯父(母の姉ガラシャの夫)の細川忠興、土井利勝の取りなしによるもので、以後、束髪して主水と称します。

 旗本としては将軍上洛の際は供をしたとされています。

 昌澄は寛永18年(1641)3月26日に63歳で亡くなります。

 長男の勘七郎は大坂の陣で討死していたため、次男の信高が家督を相続し、子孫は代々旗本として存続しています。

 また、昌澄には元信という弟がおり、幼いころから織田信雄に仕え、その後豊臣秀頼に仕えたとされていますが詳細は分かりません。

【寛政重修諸家譜】織田昌澄
文禄元年三月豊臣太閤朝鮮征伐のとき藤堂佐渡守高虎は父信澄が旧識たるをもって高虎にしたがひ朝鮮にいたり、のち京師に閑居し、其のち豊臣秀頼につかふ。元和元年大坂城に籠り、天満口にをいて藤堂高虎が手にむかひ接戦し、軍功をあらはし、秀頼より国光の刀、獅子紋の鞍、陣羽織等をあたへらる。鞍は奥羽両国の押領使秀衡が蔵せしところなりといふ。大坂落城ののち昌澄京師に至り、みづから罪を謝し死刑に處せられむ事をこふ。東照宮天満宮のはたらき神妙なりしとて其罪を宥め、諸国を徘徊する事をゆるさる。これより剃髪して道半斎と号す。四年十一月台徳院殿、藤堂高虎、細川忠興、土井利勝をして昌澄を江戸にめされ、近江国栗太甲賀二郡のうちにをいて采地二千石をたまふ。このとき束髪して主水と称し、寄合に列し、のちしばしば御上洛の時供奉し、其のち小普請となる。寛永十八年三月二十六日死す。年六十三。
【徳川実紀(台徳院殿御実紀)】
(元和元年)
織田主水昌澄は今度籠城しけるが天満口の挙動勇々敷なりとてゆるさる。その母は大坂の北方につかへたりとぞ
(元和四年)
織田三左衛門昌澄入道道半斎。近江にて采邑二千石を給ひ。束髪して主水と称し寄合の列に加わる。是は七兵衛信澄の子にて、秀頼につかへて大坂前後の軍に功をあらはし、落城の後みづから罪を謝し死刑に處せされん事をこふ。神祖その働を感じたまひ、罪をなだめられ、諸国徘徊をゆるされ。剃髪して道半斎といひしなり。
https://youtu.be/3xQ_KJ5Hbmo