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宣教師の戦国見聞録~比叡山焼き討ち

  今回は、戦国時代に来日した宣教師の見聞記録の中から、織田信長の「比叡山焼き討ち」に関して記された、1571年10月4日付けルイス・フロイスの書簡を紹介します。

 仏教等他宗教のことになると攻撃的な表現が目立つ宣教師の記録ですが、そのままの内容で伝えます。

比叡山の状況

 フランシスコ・ザビエル師やガスパル・ヴィレラ師の書簡により、都から東に三里離れた非常に高い山である比叡山の諸大学が、かつてどれほど盛んであったか、承知されているでしょう。

 八百年前、宗教に大変熱心であった王(桓武天皇)が、その山において絶えず祈りを捧げるために三千八百の寺院を建立し、彼の後継者たちは比叡山を宗教の本山として庇護してきた。

 ところが王の権勢が衰えると、寺院は戦乱の為次第に荒廃し、その数も減り、三里に渡る十六の谷に建てられていた三千八百の寺院は四百余りに減少した。

 しかしかの大学は王が創建したものであったが故に、常に仏僧らが都に影響力を保持していた。また、自由に学問の研究に従事し、創建時の目的を達するため、今日まで絶対的な宗主は、日本の王の兄弟か息子、若しくは非常に近い血筋の者であり、仏僧らは非常に傲慢であるが、皆宗主を大いに尊敬している。

 俗世の煩いに乱されないため、創建者の王は、山の上では農業など俗世間のことを行わせないように決め、そのため近江国のほぼ三分の一の収入を比叡山に与え、その麓に上の坂本と下の坂本と称する非常に大きな二つの町を造らせ、僧侶の用に供した。

 それらは仏僧が学問と祈りに集中できるように充てられたものであるが、彼らはその恵まれた環境を、悪習と憎むべき悪行のため好き放題使っており、堕落した俗人より劣悪である。

 また、日本の他の宗教をことごとく支配下に置くため、三十七年前に武器を手に取って都に下り、町の大部分を焼き払って多数の人の命を奪った。彼らは学問や祈りより、常に武技を重んじた。

 そのほか比叡山には、ある偶像のために建てられた寺院が一つの山の頂にある。その偶像は観音と呼ばれ、日本全国で非常に崇められている。その寺院は参拝者が多く、人々は健康と富と長寿を祈る。

 この山には観音に捧げられた蝋燭が数え切れないほどあり、全ての人は、この偶像を侮辱するのはもちろんのこと、蝋燭に石を投げたりその他いかなる害を及ぼす行為を非常に重い罪と見なしており、この偶像に対する侮辱は直ちに罰せられ、冒とくした者は病に罹ると信じられている。

 山の麓にある上の坂本の町の側に観音の寺院が十乃至十二あり、小さいながら日本で最も美麗なものに属する。

 私は日乗の迫害により信長に助けを求めるため尾張国へ赴いた際、上の坂本が途中にあったため通過した。

 毎年仏僧らが観音なる偶像のために盛大な祭礼を行うのは、比叡山の古くからの習慣である。仏僧らは皆武装して山を下り、下の谷間の七カ所の寺に納められている七つの輿を背負う。

 昨日、都に居る老人のキリシタンから聞いたが、その輿一つを揃えるのにその装飾品を含め莫大な金銭を要する。これら七つの輿を担いで七艘の船に乗り、近江国の非常に大きな湖に入る。そしてそこで、輿を持ったまま踊り、偶像を称える数多の儀式を行う。

 この坂本の祭礼が終わると、今度は都で祇園と称する別の神のための祭礼が行なわれた。これは一年のうちで最も盛大なもので、日本中から人が集まるようである。これは悪魔が聖体の祝祭を真似ようとしているように思われる。

 この比叡山の仏僧は極めて傲慢であり、とても乱れた生活を送っているが、過年、尾張の国主信長が公方様のために阿波国の諸侯(三好)数人と戦いに来た際、彼らは難攻不落の地に居たので信長が都に戻ったところ、敵である越前国主(朝倉義景)が四万近い兵を率いて出陣してきた。

 信長はすでに己の軍勢を引き上げさせていたため、彼の元には七千ほどの兵があるにすぎなかったが、敵が坂本にいることを知ると直ちに夜のうちにそこへ向けて出発し、到着するや否や下の坂本をことごとく焼き払った。この町は甚だ広大であった。

 敵は上の坂本や比叡山の山中に籠って勢いを増し、仏僧はことごとく信長の敵に回り、食料や住居を彼らに提供して助けた。

 こうして両軍は厳寒の中、およそ二カ月半にわたって対陣し、信長は美濃に帰ることができず、敵もまた数で上回っていたにもかかわらず戦を仕掛ける勇気はなかった。

 結局坂本から二里の所にある堅田という裕福な人々が住む町が信長に反旗を翻し、そのため信長は千名ちかい兵士の命を奪われた。ただし敵も五百名を失った。

 最終的に和睦を結び、越前国主は自国に、信長も己の国に帰ったが、信長は比叡山の仏僧や上の坂本及び堅田の両町が彼に対して働いた無礼を根に持っていた。

 彼は一向宗と称する宗派の人々を憎悪していたので、自国に帰った後、彼らと戦を行って(伊勢長島一向一揆)多数の者を生け捕りにし、男女の俗人とも十字架に架けた。

 彼は七つの城を攻略した後、奉行の和田殿が亡くなったことや公方様が彼の保護と援助を必要としていることを聞いたので都に向かった。

比叡山焼き討ち

 坂本に至ると、彼は三万の兵を伴っていたことから、比叡山の仏僧らに報復する好機と捉え、攻撃のため全軍を集結させた。仏僧らはこれを察知したが抗する術がないので、信長に金の延べ棒三百本を贈った。

 また、堅田の町は二百本を贈ったが、信長は一本も受け取らず、金のために来たのではなく彼らを徹底的に罰するために来たのだと伝えた。

 山の支配者達はこの返答を聞くと、信長は神仏を信じないとはいえ、観音は多くの人から崇められており、仏罰も恐れられていることから、信長が観音を破壊することはあるまいと考え、彼らは他の寺院と財物を放棄して山頂にある寺院に集まった。また、坂本の町の住民は仏僧の勧めにより妻子を連れて山に入った。

 信長は彼らが皆山上に居ることを知ると、直ちに坂本の町を焼き払わせ、残っていた人々を悉く撫で斬りにさせた。これは1571年9月29日のことであった。

 仏僧らが観音の罰について説く妄想を少しも意に介していないことを知らしめるために信長が次に行ったことは、山麓にある例の偶像の寺院と七つの輿を全て焼き尽くしたことである。

 その後彼は三万の兵を分けて王冠のように山の周囲を取り囲み、山頂に向かって進軍させた。

 仏僧らは武器を取って抵抗を始め、およそ五十名の兵に傷を負わせたが、苛酷な攻撃に抗しきれず、坂本の町から避難してきた男女子供共々全員が撫で斬りにされた。

 翌日は山頂にあった観音の大寺院が焼かれた後、信長は多数の鉄砲隊を出して山や森に潜んでいる仏僧狩りを行わせて一人も生かしておかぬよう命じ、すぐにそのとおり実行された。

 信長はそれに飽き足らず、己の激情を満たし、さらにその力を誇示することを望み、全軍に対して残っていた仏僧らの住居や有名な四百に上る寺院を全て焼き払うよう命じた。寺院はその日のうちに一つ残らず焼かれて灰と化した。

 次には軍勢を堅田の町に向かわせ、町は抵抗するすべもないままたちまち血に濡れ炎に囲まれて滅んだ。私が聞いたところによると、千五百近くの仏僧が命を奪われ、それ以外の男女子供の俗人も同じ位の数が命を落としたという。

 このことが諸国にどれほどの驚嘆と恐怖を及ぼしたか到底語り尽くせるものではない。なぜなら、日本においてはもっとも起こり得ないことの一つと考えられているからである。

 続いて信長は、公方様を訪ねて諸国の用務を処理するため、十月の初めに都に来た。諸国の政治は彼一人にかかっているからである。

 当地でオルガンティーノ師と私は信長を訪問したが、彼の歓待ぶりや彼との長い対話のことは書き尽くせない。

【主要参考文献】
国立国会図書館デジタルコレクション
:同朋舎)