明治維新から50年後、維新50年を記念して、戊辰戦争に従軍した元長州藩士らから回顧談を集め「維新戦役実歴談」として編纂されました。
今回はその中から、小隊嚮導(小隊長クラス)として東海道、関東、会津にかけての戦争に従軍した河村正之(旧名五郎)という人の回顧談を紹介します。
長州近辺での戦い
私は旧名河村五郎と申しました。慶応元年の内輪騒動の前、すなわち明治元年の十一月か十二月頃かに、高杉晋作が三田尻に来て軍艦を奪って行きました事があります。
その時、佐藤興三右衛門が山口から金を持って戻って来て、今度軍艦を高杉晋作等の手に渡すが、それについて不服のあるものは上陸してしまえと言った所が、中には上陸した者もあった様でありましたが、私は上陸せず馬関まで参りましたのであります。
それから、長幕の関係が切迫する前、芸州で幕府と応接があります時に、私は小田村素太郎(後男爵楫取素彦)、赤川又太郎の付属として広島へ参りました。最も私共二人は、小田村・赤川よりは後に参ったのでございます。
丁度その時は広島応接の半ば頃であったと思います。そうして終局に至るまで居りましたが、終に談判破裂、四境の戦争となりましたから、私共は広島から帰国せずに直ぐに小瀬川口に留まり、干城隊の佐久間左馬太の手に付きまして、芸州諸所で戦いました。
以上は今回の祭典には関係はございませんが、覚えた丈を話しておきます。
維新の時は、私は三田尻の海軍局に居りましたが、京都へ出よということになったから萩へ戻って第四大隊の第一中隊の一番小隊に編入せられて嚮導となりました。隊長は林英次郎でありました。
それから萩を立って三田尻へ出て和船に乗って出航し、尾道で上陸して長らく居りました。その内に備後の福山城攻撃ということになって、鞆の津から上陸して福山を攻撃した。
そうすると直ぐに降参して来ましたから、その日は福山へ泊りました。福山藩は大変に我々共を歓待しました。その翌日出発して又尾道へ帰りました。
関東の戦い
それから何日であったか尾道から京都へ行きまして暫く居りましたが、東海道先鋒として出る事になりましたから、我々の隊は東海道の本道を通って行きましたが、三島から箱根へ出るには間道を通り宮の下を経て小田原へ出まして、そうして神奈川まで進み、神奈川で暫く滞って居りました。
その間に一寸板橋の東山道先鋒軍の本営へ打合せのため、名は覚えませんが或一人と同行しましたことがあります。
それから神奈川に居る時にこれ迄持っておった古銃と新式の銃と取替えられ、役付の者は自費で洋服に改めた。それから川崎へ行ってまた暫く居って、江戸に入ってからは芝愛宕下の青松寺に居りました。
夜は青松寺の山で篝火を焚き杯して居り、四月十一日江戸城受取の時には我々は二重橋外へ警固に出て居りました。
それから閏四月七日に上総方面に脱賊が居るというので、鋭武隊と一緒に八幡村姉ヶ崎などで戦いまして賊兵を追い散らし、八日に木更津まで進みました。十四日頃に再び江戸に帰りまして丸の内の上杉邸に入りました。
今度は五月十五日に江戸上野の戦争で我々共は団子坂の口から攻撃しましたが、その内に坂の上へ上って飯を食って居る所へ賊がやって来ましたからこれを撃ち払ったら、直ぐ上野へ落ちて行きました。翌日は残賊探しで方々を廻りました。
五月二十三日かに小田原藩が賊兵と一緒になって官命に抗するということで、また鋭武隊第一大隊が先に出て我々は遅れて出掛けましたが、我々共が行く途中で事が済んだということで江戸へ引き返しまして、今度も上杉邸に入りました。
東北での戦い
それから奥州へ出る事になって、六月十五日江戸を発して二十二日に白河へ着しましたが、その途中べつだん変わった事もなかった。
それから棚倉の城を攻撃しまして、それが落城して、今度は三春へ行った。三春は向こうから降参して来まして、それから二本松へ行きましたが、その手前に阿武隈川があります。
初めの者はその川に入って渡った。大抵三人連れで渡った。あとの者はそうでなかった。丁度向こうに台場を築いて居るので、上がってから台場を叩き壊してしまった。
それから二本松は半日ほどかかって落城しました。そこに暫く滞陣して居りまして、それから今度は会津へ進撃しました。
会津の戦い
その会津の入口に母成峠というのがあります。そこは余程嶮岨な要害の所でありまして、凹んだ所に台場を築いておったが、その上から撃ったから何のことはなかった。
母成峠に上ってみると丁度敵の玄米の飯が出来上がった所へ此方が押し寄せて行ったので、それを食わずに逃げたものと見えます。
その勢いでズッと押し通して行った。彼所は一寸峠の上から道のりがありまして、城下へ入ったその途中十六枚橋というのを渡った。そこではどの隊も大抵一緒になった様であります。
敵は母成の要害を頼みにしておった所が陥落したから不意に城下へ入って行った。何處も箇も朝飯を食う最中でありまして、往来には馬や盲の様なものがウロウロして居った位で城では皆門を締めて昼夜間断なく小銃を撃ちあって居りました。
弾丸が飛んでくるので家のなかに坐って居ることも難しかった。それから外側へ台場を築いて、それへ代わり替わり守りに出て居った。
丁度稲がありました。敵の槍隊が其の稲の中を潜ってやって来る。なかなか豪らかったが、いつも台場を取られる様なことはなかった。
此方の陣所は市中の町家であります。城と町の間に土塁を築きました。大抵毎日撃ち合うということは絶間なしであった。
そこで代わり合って休憩して居ったが、草鞋を履いて横になって居るというだけでありました。その内落城して降参ということになりましたが、何でも其の時は城門を開けて扇子を振って出たかと思う。
それから談判が始まったということでありますが、私共は直ぐに引き上げることになって、後から来た連中に任せるというので、藩主容保を城外の寺に護衛して行って、それから直ぐに戻って帰りの支度をして、落城になった翌日会津を出発しました。
一番先鋒で行ったから帰る時は一番早く引き上げましたので、後の始末はどうなったのか一向に知りませぬ。
この会津戦争では私共の隊はあまり激しい戦いは無かったので、功もなし、敗も取ったことはない、それ故別にお話しする程の事もありませぬ。
途中の兵糧はいつも握飯でお菜は有る時はあり無い時は何にもなく香物梅干或いは味噌位なもので、滞陣して居る時は幾分か甘い御馳走の出ることもあった。
それから東京へ帰りましたが宿陣はやはり青松寺であったと思います。それから西丸下へ御召で、戻った其の支度でよいということで出まして天顔を拝しましたあとで、御酒下されがありました。それから直ぐに出発して東海道を通って萩に戻りました。



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