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羽柴秀長の跡継~藤堂高吉92年の波乱の生涯

 織田信長の重臣丹羽長秀の三男として生まれ、羽柴秀長の養子、その後藤堂高虎の養子となりながらそれぞれ跡を継げなかった、悲運の武将藤堂高吉。徳川四代将軍家綱の時代である寛文10年(1670)まで生きたその波乱の生涯について紹介します。

 高吉は、天正7年(1579近江佐和山城で丹羽長秀の三男として生まれ、幼名は仙丸(千丸)(せんまる)といいました。
 天正10年(1582)の織田信長の死後、羽柴秀吉は長秀との関係を強化するため、跡継ぎのいなかった弟秀長の養子を長秀に求め、同じく秀吉との関係を強化する必要を感じていた長秀は、わずか4歳だった仙丸を跡継ぎのいなかった弟秀長の養子として出したのです。
 秀長には小一郎(与一郎)という息子と娘が二人いたとされていますが、小一郎は若くして亡くなっていました。
 仙丸は秀長から可愛がられていたようで、このまま秀長の跡を継ぐはずでしたが、天正13年(1585)に実父丹羽長秀が亡くなると、その跡を継いだ兄長重は秀吉によって大幅に減封され小大名となってしまい、高吉は後ろ盾を無くしてしまいます。
 それでも変わらず秀長に可愛がられていた仙丸は、子供ながら従五位下宮内少輔に任官しています。
 そのような中、天正16年(1588)、絶対的権力を持った秀吉は、大和大納言家100万石を自分の血筋で固めようと、姉とも(日秀尼)の三男である秀保を秀長の跡継ぎにしようと娘婿とさせたのです。

藤堂高虎の養子へ

 居場所を無くしてしまった高吉について、秀長の重臣で跡継ぎのいなかった藤堂高虎が養子として迎えることを申し出てます。跡継ぎとして育ててきた高吉を家臣の跡継ぎにやるということに秀長は不本意だったようですが、結局は秀吉の意向に従ってこれを認めて、扶育料として一万石を付けて養子入りさせたのです。当時高虎の所領は一万石で、高吉の分と合わせて二万石になります。
 こうして高虎の跡継ぎとして藤堂家に入った仙丸は、やがて元服し養父から一字を与えられて高吉と名乗ることとなります。
 一方、元の養父秀長は、天正19年(1591)に病死してしまい、高吉はまたもや後ろ盾を失ってしまうのです。
 その後高吉は、養父高虎と共に文禄の役にも従軍します。これが14歳の高吉にとって初陣でしたが、歴戦の家臣らに守られて海戦や城攻めで手柄を立てたとされています。
 その後、文禄3年(1594)に諸大名が動員されて伏見城が建築されますが、養父高虎とともに工事を指揮していた高吉を見かけた秀吉が、自ら着ていた羽織を高吉に与えたと記録されています。秀吉も高吉に対しては負い目があったのでしょう。
 その後、秀長の跡を継いだ秀保が文禄4年(1595)に亡くなると、養父高虎は出家して高野山に上ります。しかし高虎の能力を評価していた秀吉に呼び戻され、還俗した高虎は、伊予で7万石を与えられ独立した大名となり、高吉もそれに従い伊予に移ったのです。
 高吉はこの頃、溝口秀勝の娘と婚姻しますが、合わなかったのか2年程で離縁したようです。しかしその侍女を留まらせて側室とし、長正をはじめとする子供たちを儲けています。
 その後高虎、高吉は慶長の役でも活躍し、高吉は秀吉から感状を受けています。

伊予今治へ

 秀吉の死後、家康に急接近した高虎は、関ヶ原の戦いで東軍に加わり、高吉も養父に従い活躍、高虎は伊予今治20万石に大幅加増され、高吉もうち2万石を与えられます。この後高吉は長く今治と縁を持つことになります。

 このままいけば高虎の跡を継ぐはずだった高吉ですが、またもや運命に翻弄されていきます。

 慶長6年(1601)に高虎に実子・高次が生まれたのです。高虎は当時46歳で、本人や周囲にとっても驚きのことだったでしょう。この実子誕生により、既定路線だった高吉の藤堂家継承は頓挫してしまったのです。

拝志騒動

 関ヶ原の戦い後、家康の信任厚い高虎は今治を留守にすることが多く、その際は高吉が代って治めていました。

 慶長9年(1604)、高虎の留守中に、隣接する松山城主加藤嘉明との間に騒動が勃発します。

 ある軽輩の藤堂家臣が理由は不明ですが同僚を殺害して出奔し加藤領内の拝志に逃げ込んだため、成り行きで別の藤堂家臣が追っていき成敗します。この経緯の説明のため高吉は家臣を拝志城に派遣します。加藤家と藤堂家の境界にある拝志城は、嘉明の弟・忠明が城代となっていました。

 ところが、誤解があったのか、この家臣が加藤家によって殺害されてしまう事件が起きたのです。

 藤堂家中は激怒し、高吉は兵を率いて国境付近まで出陣し一触即発の状態となりますが、この状態で自制して駿府の高虎のもとへ急報します。

 高虎を通じて訴えを受けた幕府は、加藤家側に非があるとして処分を下し、藤堂家にお咎めはありませんでしたが、帰国した高虎は世間を騒がせた責任があると高吉に伊予大洲での蟄居を命じます。

 この高吉への処分理由は幕府や加藤家に配慮したものとも考えられますが、高虎に実子が生まれ微妙な立場に立たされていた高吉にとっては厳しいものであったでしょう。高虎に許されないまま蟄居三年目には、病に倒れてしまったと記録されています。

 なお、この蟄居三年目の慶長11年(1606)に、家康直々の命により高吉の蟄居は解かれています。

今治の領主へ

 慶長13年(1608)、高虎が伊賀一国と伊勢の一部22万石を得て転封となります。大坂への備えとして信頼厚い高虎を要衝の地へ配置したと考えられますが、高吉は家康の指示で今治2万石の城主として伊予に残ることとなります。藤堂藩の飛び地支藩的立場でした。

 大坂の陣では高虎に合流して参陣しますが、特に夏の陣では八尾の戦いにおいて藤堂軍は長宗我部盛親らを相手に激戦を繰り広げます。盛親軍の待ち伏せに遭い藤堂家の先鋒部隊が壊滅状態に陥るも、中備えの高吉らの奮戦により辛くも勝利を収めます。

 その後高虎は、合わせて10万石の加増を受けています。

水口宿事件

 大坂の陣後も今治2万石を治めていた高吉でしたが、養父高虎、高次の居る津本藩との関係は複雑なものであったようです。

 寛永7年(1630)、養父の高虎が病死すると、高吉は葬儀に列席しようと今治から江戸に向かいます。しかしその途中の近江水口で本藩の使者によって江戸行きを止められ、今治に追い返されることとなってしまったのです。

 これは高虎が亡くなるまで跡継ぎを正式に定めていなかったことから、跡を継いだ高次ら本藩が紛争を避けるため高吉を阻止したものと考えられています。

伊賀名張へ

 寛永12年(1635)、伊勢長島から家康の甥に当たる松平定房が今治へ移封されることとなったために領地替えが行われます。

 藤堂家には新たに伊勢内(多気郡・飯野郡)に2万石が替地として与えられ、そこが高吉の所領となりました。

 元々は大名格として扱われていた高吉が、高虎、高次によって巧妙に津藩内に取り込まれていったともいわれています。

 これにより40年に及んだ高吉の伊予での生活が終わりを告げたのです。高虎が伊勢に移った後の27年間は高吉が今治を治めており、今治発展の礎を築いたのでした。

 なお、翌寛永13年(1636)、高次の命による一部領地替えにより伊賀名張に居を移します。

福井文右衛門の義挙

 名張に拠点を移した高吉でしたが、その領地は名張5千石と伊勢1万5千石に分かれていました。飛び地領となった伊勢の領地に古くから高吉に仕えていた福井文右衛門を代官に任じます。

 文右衛門は領内を見分した結果、飯野郡出間村(いずま)では、草木一本動かすことが禁じられた伊勢神宮の神域を避けて迂回して水路が造られていたため、水量が乏しく、領民は水不足に苦しんでいたことが判明しました。

 その窮状を見かねた文右衛門は、高吉に後難が及ばぬよう独断で住民を動員して一日で神域内を通る水路を建設し、責任を一身に負って自刃したのです。

 その後名張藤堂家と神宮側で交渉が行なわれましたが、神宮側も理解を示し円満に決着したということです。

高吉と名張藤堂家のその後

 完全に津本藩の家臣に組み込まれていった高吉とその家臣達はその境遇に不満もあったようで、藤堂家を去る家臣もいたようです。

 それでも、今治からわざわざ高吉に付いてきた商人や職人たちも多く、名張を発展させていきました。

 その後高吉は、寛文10年(1670)、92歳の生涯を名張で終えます。本能寺の変前後の激動の幼少期から、徳川四代将軍家綱の代までの波乱の生涯でした。

 高吉の跡は嫡男長正が継ぎますが、津藩三代藩主高久の命により、本藩の家臣とされた長正の弟3人に5千石が分知され、名張藤堂家は1万5千石とされてしまいます。

 その後も津藩内における名張藤堂家の複雑な立場は続き、名張藤堂家五代当主の長煕の代には家格回復を幕府に働きかけ本藩と一触即発の事態になった享保事件も起きます。結局独立は認められず、家臣3名が切腹、長煕は隠居することとなりましたが、その後も名張藤堂家は存続し、11代当主の代に明治を迎えています。

【主要参考文献】
国立国会図書館デジタルコレクション

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