崇禅寺馬場の仇討とは、江戸時代の正徳5年(1715)に大阪で起きた、兄弟の仇討ちが失敗に終わり返り討ちに遭った事件です。この事件は浄瑠璃や映画などの題材にもなっています。
事件の背景
仇討ちの元となった事件は、大和国郡山藩家中で起きます。
鎗術師範を勤める遠城治郎左衛門には、
長男 遠城治左衛門(26歳)
次男 安藤喜八郎(24歳)
三男 遠城宗左衛門(17歳)
の3人の息子がいました。三男の宗左衛門だけ次郎左衛門の継室である安藤氏の子供で、兄二人は異母兄になります。
次郎左衛門の死後、長男の治左衛門が遠城家の跡を継ぎ、次男の喜八郎は継母の実家に養子に入って安藤家を継いでいました。
正徳5年5月14日、知行200石で物頭役を勤める生田江平(江兵衛、惣兵衛とも)の養子生田伝八郎(25歳)が、遠城家の三男宗左衛門を喧嘩の末に斬り殺したのです。
事件の原因ははっきりと分かっておらず、剣術の試合に負けた生田の復讐、兵術に関する口論の末、酒の席での口論など複数の説があります。
いずれにしても私闘による刃傷沙汰であるので、正当防衛でもない限り生田も腹を切るのが通常でしたが、その後生田は国元から出奔し大阪に身を隠してしまったのです。
遠城家では実子を失った継母が悲嘆にくれ、兄2人に仇を討ってくれるよう頼みますが、当時の仇討ちというのは、主君や親、兄などの仇を討つものであり、弟の仇討というのは認められていませんでした。
その結果、兄2人は脱藩して生田を追って仇討に行くこととしたのです。正式な仇討ではないので、本懐を遂げたとしても帰参できる保証はないものでした。
大坂での再会
出奔した生田は大坂に移り住み、旧知の弓師の世話で、曾根崎新地の花屋の離れ座敷に住み込み、剣術指南をしていました。
一方の遠城兄弟も、情報を掴んだのか大坂に移り住んで生田の行方を捜していました。
事件から5カ月経ったその年の10月、ついに兄弟は生玉神社付近で生田を見つけます。喜び勇んで生田に勝負を迫りますが、生田は、
「ここは市中で神社の聖域でもあり、今連れている弟子たちが勝手に助太刀しないとも限らない。そのようなことは本意ではないので、明後日の朝から崇禅寺前の松原で立ち会いたい」
と答えたため、兄弟はその申し出を承諾し、改めて対決することとします。
しかし、当日約束の場に生田は現れません。生田は明石に住む実母が病気になったので看護に行っていたということで、書面を取り交わして改めて日を設定したのです。
崇禅寺馬場での決闘
崇禅寺馬場は、崇禅寺という古刹の門前にある松原で、人通りが少なく静かな場所でした。
改めて約した11月4日朝、兄弟は白鉢巻、襷、脚絆に、鎖帷子を着込んだ格好で、現場に着き身支度を整えていたところ、生田が現れ声を掛けてきたのでした。
今回はやってきたと兄弟は喜び、生田に一礼して勝負を挑もうとしましたが、いきなり物陰から矢や石礫が飛んできたのです。
生田は密かに大勢の弟子を連れてきており、弟子たちは付近の松や田んぼに身を隠していたのでした。
兄弟はすぐに生田に謀られたと気づきましたが、躊躇する間もなく戦いに挑みます。
治左衛門は薙刀、喜八郎は槍を携えており、多人数を相手に奮戦し、生田本人はじめ4人に手傷を負わせますが、衆寡敵せず、2人とも力尽き討たれたのでした。
目撃者によると、生田に付いていた弟子は8名若しくは16,7人だったとされ、いずれにしてもかなりの人数だったようです。
奉行所役人の検視記録によると、2人とも頭から足まで全身の切傷、矢傷、突傷が数十箇所に及んでおり、惨殺された状態でした。
その後どうなった?
兄弟を返り討ちにし、意気揚々と引き上げた生田でしたが、目撃者も居たことから瞬く間にこの話は広まり、兄弟の勇気が称えられる一方、生田の非道な行いが非難されます。
事件から20日後の11月24日、生田は大和の寺にある遠城家の墓地で、
「死手の山 たどり行みる 今宵かな」
との辞世の句を残し切腹しています。
世間からの卑怯者とのそしりに耐えられなかったとも、養父から切腹を迫られたともいわれています。
なお、遠城兄弟については、崇禅寺の住職らが同寺に墓碑を建立して丁重に弔われています。
参考文献
国立国会図書館デジタルコレクション
『摂州崇禅寺馬場敵討縁起』(後藤捷一編,崇禅寺)
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