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武田信虎のその後~息子信玄から追放された後半生

息子信玄から追放された信虎

 天文10年(1541)、甲斐国の戦国大名武田信虎は家臣らに支持された嫡男晴信(のちの信玄)が起こしたクーデターによって、娘婿の駿河の今川義元のもとに追放されます。

 追放された理由には諸説ありますが、晴信や家臣団との関係が悪化していたことが原因であると考えられています。また、『甲陽軍鑑』に見られるように、信虎のさまざまな悪行が原因ともいわれています。しかし、『甲陽軍鑑』は江戸時代初期に編纂された軍学書で、具体的に悪行について書かれた一次史料はありません。

追放された後の活躍!

 追放後の駿河では、信玄から生活費を援助されていたこともあり、悠々自適の生活を送っており、信玄の弟になる信友も生まれています。

 しばらく駿河国で過ごしていましたが、弘治3年(1558)以降は京都に移り、13代将軍足利義輝の相伴衆となります。

 また、永禄7年(1564)から永禄10年(1567)の間は、志摩国の地頭である甲賀雅楽頭のもとに身を寄せ、雅楽頭や領民に軍学や兵法を教えたといわれています。そして、当時甲賀氏と敵対していた九鬼嘉隆の軍勢を信虎の策で破ったと伝えられています。

 その後、また在京していましたが、天正2年(1574)には五女が嫁いだ信濃国伊那の領主禰津氏のもとへ移り住んでいます。やはり最後に頼りになるのは娘ということでしょうか。武田家の当主は信玄から勝頼に代わっていました。

信虎と勝頼~恐怖の対面!?

信玄死後の天正2年(1574)、信虎は勝頼に使いを立てて、甲斐に帰国したいと願います。しかし、追放後33年経っているとはいえ、甲斐国内に招き入れるのは抵抗があったため、武田信廉(信虎六男)の居城である信州高遠城で両者は対面します。

以下の記述は『甲陽軍鑑』に記されている信虎と勝頼の対面の様子です。

信州伊奈にて、御対面なり、長閑申ごとく、勝頼公と御対面の座にて勝頼は母かたは誰ぞと尋給ふ、長閑承り諏訪の頼茂むすめ子にてましますと申、信虎公少し御気色違ひ、勝頼は当年いくつぞと御尋有、長閑承り、二十九歳にて御座候と申、
其後各侍大将衆を御尋あり、昔しの親の名字名乗者一人も無之候工藤源左衛門を、内藤修理と申、きやうらいし(教来石)民部を、馬場美濃守と申、飯富兵部弟を、山縣三郎兵衛と申、高坂弾正を御尋ねなさるる、伊澤の春日大隈むすこと申、信虎公聞召、百姓を大身には、信玄の分別ちがひなりと被仰、
其次に武田の御重代左文字の御腰物をおし板の上に立ておき給ふは、信虎公四十五歳にて、甲州を御出有、三十七年にて八十一歳のとき御帰参あり、孫にてまします勝頼公に御対面なれば、武田の重代を御座敷に置給ふ尤も也、
然る所に信虎公此御腰物をぬき給ひ、此刀にて五十人にあまり御手うちなされ候、中にも内藤修理と名乗奴の兄をけさがけに切たると被仰、其後勝頼公の御かほ御覧なされ、左文字の腰物をぬきながら如此と座中悉く氷り、目もあてられぬもやうなるを、小笠原慶庵、心の剛なる人にて候ゆへ、かようの次に承り及たる武田御重代拝み申べきと、被申て信虎公の御傍へ参り勝頼公の間へ入御腰物を無理に奪取、鞘に納め戴ひて長閑に渡す、
信玄公の御相に、小笠原慶庵を頼敷思召、御話相手に被成大勢の中にて慶庵をば大事の所へめしつれられ候ひつるはか様の人と慶庵を御目利あり、信玄公を諸人貴ひ奉るは尤なり、其後やがて勝頼公甲府へ御帰り候へ共信虎公をば伊奈にさし置なされ候は、長坂長閑分別よき故也、信虎公やがて御他界なり

 初めて会った孫の勝頼に、母方は誰であるか尋ね、諏訪頼重の娘と知ると不機嫌な顔をみせます。信虎が当主のときに頼重に娘を嫁がせており、諏訪家とは友好関係にあったはずなのに、やはり他国(信濃)出身は気にいらなかったのでしょうか、、、

 また、家臣を50人手討ちにしたと書かれています。信虎追放を正当化するために、粗暴な面を強調したとも考えられるので、人数に関しては多く記されている可能性がありますが、家臣を手討ちにしていたことは間違いないようです。

 81歳と当時ではかなりの高齢にもかかわらず、武田家重代の刀である「左文字」を抜いてみせて自慢している様子も書かれています。

信虎の最後

 『甲陽軍鑑』は江戸時代初期に編纂された軍学書です。一次史料ではなく、軍学書なので信憑性に欠ける部分もありますが、具体的に書かれていますので全くの創作ではないと思います。かなり誇張されているとは思いますが、、、

 暴君的な一面もあり、家臣には嫌われていたでしょう。しかし、信虎の時代の甲斐を統一するためには、強権を持って周囲に恐れられる存在になるしか仕方なかったかもしれません。信玄の時代に繋ぐ損な役回りだったともいえます。

この対面後、間もなく信虎は老衰で亡くなりますが、その翌年に長篠の戦いが起こります。そして、わずか8年後に武田家は滅亡するのです。武田家の衰退を見ずに、死を迎えられたのはある意味幸せな最期だったのかもしれません。

菩提所である大泉寺には、息子信廉が描いた信虎の肖像画が奉納されています。

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