天下五剣「鬼丸」
「鬼丸」とは「天下五剣」の一つともいわれ、鎌倉北条家伝来の宝物であった後、代々の権力者たちの間を渡り、現在は皇室に納められているという名刀です。
今回はこの「鬼丸」に関して伝えられている逸話を紹介します。
北条泰時と粟田口国綱
鬼丸を打ったのは粟田口国綱という後鳥羽上皇の御番鍛冶で、承久の乱後に上皇が隠岐に流された際には供として随行した一人といわれています。
その後鎌倉幕府執権北条泰時から招きを受けたものの、「上皇が居られる間は此処を離れることはできない」と断って隠岐に居座り、上皇崩御後1年を経過してようやく求めに応じて鎌倉に来たそうです。
ここで国綱が打った数振の刀のうち、泰時は最も優れたものを自分の愛刀とし、国綱には褒美として良田30町を与えたといわれます。
しばらく後、泰時の夢の中に毎晩鬼が現れて体調を崩してしまったそうです。
物の怪に取りつかれたと思い、悩まされる日が続いていたある夜のこと、枕元に立てて置いた国綱の太刀がいつのまにか倒れて鞘が割れ、傍らにあった火鉢の足に付いている鬼の面を切り落としていたのです。
不思議なことだと思ったそうですが、その夜から鬼の夢に悩まされることがなくなって、泰時の病は日に日に回復していったそうです。
泰時はこの2尺5寸9分の名刀に奇跡を感じ、「鬼丸」と名付けて北条家の家宝としたといわれています。
鬼丸のその後
鬼丸は北条家代々に伝えられましたが、鎌倉幕府滅亡時に北条高時ら一族が東勝寺で自害した際、落ち延びた高時の遺児時行に与えられます。
その後、時行が新田義貞に敗れ義貞のもとに移り、義貞が越前で敗れ討死した後は斯波家を通して足利将軍家の宝刀となります。
足利最後の将軍義昭から秀吉に贈られたそうですが、秀吉は自ら所持せず刀剣の専門家である本阿弥光徳に預けます。
大坂の陣の時、本阿弥家から家康に差し出されますが、家康は
「太閤が深慮の上本阿弥家に預けられたものであるから、そのまま本阿弥家で保管するように」
として、結局本阿弥家に伝わり、明治維新後に皇室に献上されたといわれています。
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