PR

増上寺刃傷事件~浅野内匠頭の叔父による事件

 江戸城本丸松の大廊下において浅野内匠頭長矩が吉良上野介に斬りつけた刃傷事件の21年前、内匠頭の母方の叔父である内藤和泉守忠勝が起こした刃傷事件について紹介します。

 内藤和泉守忠勝は、志摩鳥羽藩(3万5千石)の譜代大名でした。

 延宝8年(1680)6月26日、四代将軍家綱の七十七日法要に際し、忠勝は芝増上寺での警備を命じれられていましたが、その時の相勤が丹後宮津藩主(7万3千石)であった永井信濃守尚長でした。

 尚長は忠勝より上席にあるため忠勝を侮り、老中から受けた翌日の指示を記した奉書すら忠勝に見せず立ち去ろうとしたといいます。

 忠勝は奉書を見せるように求めましたが、尚長は無視したため、忠勝はこれを恨んで脇差を抜いて尚長に迫り、逃げる尚長の長袴を踏み、尚長が前のめりに転んだところを刺しころしたのです。

 更に忠勝は、止めようとした尚長の従兄弟である永井伊賀守直敬(浅野長矩の後の赤穂藩主)にまで斬りかかろうとして遠山頼直に拘束され、伊奈忠易の元に預けられます。

 騒ぎを聞いた忠勝と尚長それぞれの家来が槍などを持って寺の周りに集まったため、門を閉ざして出入りを禁止し、その後江戸中の見附御門や辻番にも厳重な警戒が指示されたといいます。

 翌6月27日、忠勝は西久保の春龍寺にて、寺社奉行板倉石見守立会の上で切腹を命じられ、御家断絶とされます。

 忠勝も尚長も同じ27歳でした。

 当時の狂歌に

「昔より 和泉守は きれもので 永井命を たんだひとうち」

というのが残っています。

事件の原因

表向きの理由は忠勝の「乱心」とされていますが、原因については諸説あります。真偽不明な俗説も含めてそれぞれ紹介していきます。

忠勝の性質

 忠勝はひどい癇癪持ちであったとされるものです。血縁関係にある甥(姉の子)の赤穂藩主浅野内匠頭長矩も、21年後に松の大廊下で同様の刃傷事件を起こしており、2人とも癇癪が原因であったとするものです。

修験者の恨み

 忠勝の領地内にいた修験者が「和泉守兼定」を所持しており、忠勝がその刀を求めるも修験者が拒否したため、強引に取り上げて自分の物としてしまいます。

 修験者は深く忠勝のことを恨んで呪いをかけ、その兼定を所持して法要に臨んだ忠勝が突如乱心して刃傷事件を起こしたとするものです。その刀は忠勝の分家に引き渡された後、寺に納められたとされています。

吉原での因縁

 当時諸大名でもお忍びで吉原へ遊びに行っていましたが、ある時忠勝の乗った小舟の舵が飛ばした泥が、尚長の編笠にかかってしまい、尚長の家来が船を引き留めようとするも、かえって忠勝の家来に川へ落とされてしまったのです。

 場所が場所だけに大事にはできませんでしたが、それ以来内藤家と永井家の仲が悪くなったといいます。

隣家の因縁

 内藤家と永井家の江戸屋敷は小路を挟んで並んでおり、永井家が高い建物を作ろうとしたところ、仲の悪かった両家は、内藤家の邸内が見える、見えないといがみ合ったことがあるといいます。