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村上海賊のその後~海賊たちはどうなった?

 室町時代から戦国時代にかけて、芸予諸島を中心に瀬戸内海で勢力を誇った村上海賊(村上水軍)。

 ルイス・フロイスの「日本史」では、

・・・日本の海賊の最大なる者が居る島に到着した。海賊は同所に大きな城と多数の部下、領地、絶えず出動する船を有し、能島殿と称し強大な勢力を有していた。他国の沿岸の人々は、彼を恐れて毎年貢物を献上している。
・・・司祭達は絶えずこの海を航海し危険があったため、彼より安全通行証を得ることを望み・・・・
彼はその紋章と署名のある絹の旗を与え、疑わしい船に出合った場合はそれを示すよう伝えた。
各地方に彼を主君と認めざる海賊も多数あるが、航海者が最も恐れるのは彼である。

 と記録されています。

 来島村上家、能島村上家、因島村上家の三家からなり、伊予に近い来島村上家は伊予守護の河野家に付き、因島村上家は毛利家に付くなど、互いに協力や対立を繰り返しながら、物資を略奪する「海賊」ではなく、水先案内、海上輸送・警固など、海の秩序維持に大きな役割を果たしていたといわれています。

 また、力だけでなく、茶や連歌を嗜むなど、文化的素養も高かったそうです。

 戦国末期には三家とも毛利家に付き、織田軍と対決した第一次木津川口の戦いの戦いでは見事勝利し、信長に対立する石山本願寺に兵糧を運び入れることに成功するなど活躍を続けました。

 では、その村上海賊たちは江戸時代へ移った後どうなったのでしょうか?

 その多くがそのまま農漁民として地元で血脈を繋いだのですが、今回は頭領であった村上家にスポットを当てて紹介します。

海賊の終焉とそれぞれの道

 来島村上家、能島村上家、因島村上家の三家のうち、来島村上家は、天正10年(1582)の織田軍の毛利攻めの際に秀吉に臣従を申し出ます。

 そのため、そのまま毛利家に付いた能島村上家、因島村上家が来島を攻め、当主来島通総(みちふさ)は来島を放棄して秀吉の元に身を寄せることになりました。

 なお、通総には秀吉から四国平定後に改めて伊予国来島(現愛媛県今治市)に1万4千石を与えられて独立大名として認められています。

 天正16年(1588)に豊臣秀吉が海賊禁止令を出すと、各地の海賊は大名の家臣となるか、農漁民化するかなどして海賊からの転向を余儀なくされ、村上水軍の残る2家の能島村上家と因島村上家は元々付いていた小早川家・毛利家に従属することとなりましたが、その際本拠地であった島の砦などは破却させられたといいます。なお、商人として海外貿易に従事することになった者達もいたようです。

 能島の村上武吉・元吉父子らは、令に反して帆別銭(ほべちせん・入港税)を徴収したとして秀吉から処罰されそうになりますが、小早川隆景が庇ってなんとか収まったようです。小早川家が隆景から秀秋の代に移ると、能島村上家は毛利家に移ります。

 一方、独立大名となっていた来島村上家はそのまま大名として存続しますが、当主来島通総は慶長2年(1597)に朝鮮出兵中の海戦で戦死しており、その後は子の来島康親が跡を継いでいます。

 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、能島村上家と因島村上家は毛利軍として河野旧臣らとともに、関ヶ原本戦に参加する加藤嘉明不在の伊予を攻めますが、逆に敗れ、能島村上家の頭領村上元吉は討死してしまいます。

 大名だった来島家も毛利家との関係上同じ西軍に属していたため、戦後改易されてしまいます。

 しかし、来島家は親族関係にあった福島正則らの取りなしで、翌慶長6年に豊後森(大分県玖珠)に旧領と同じ1万4千石を与えられ(森藩)、存続に成功します。なお、領地は内陸部であり海から遠ざけられてしまったのです。特殊技能を持つ勢力を封じる幕府の政策であったとも・・・

 一方、能島村上家と因島村上家は、そのまま毛利家に家臣として仕え、特に能島村上家は毛利一族に次ぐ重臣家である「寄組」となり、三田尻(現山口県防府市)を拠点とする長州藩船手組頭として海との関わりを保ちながら存続することとなります。

 幕末の長州征討戦では、村上一族ら船手組は大島口の戦いで活躍しています。

森藩の悲劇とその後の久留島家

 海から遠ざけられてしまった来島家の森藩でしたが、豊後日出に飛地領の港を与えられ、参勤交代は瀬戸内海を船で航行することでかろうじて海との繋がりを保つことになります。しかし、寛文3年(1663)に悲劇が起きます。

 3代藩主久留島(2代藩主の代に久留島に改名)通清一行が参勤交代のため豊後日出から瀬戸内海を船で江戸に向かう途中、周防国(現山口県)屋代島沖で大時化に遭い通清の弟通方ら11名の乗る船が磯の岩に激突し、通方ら全員が溺死してしまったのです。

 皮肉にも、村上水軍として縦横無尽に暴れまわっていた庭のような海での悲劇で、水軍としての栄光は過去のものとなっていたのでした。

 その後の久留島家は移封されることなく幕末まで森藩主として続き、明治維新の際はいち早く新政府側に与して、後に子爵となっています。

 なお、海賊ならではの村上水軍埋蔵金伝説もありますが、村上水軍は滅亡したわけでなくそれぞれの道で存続しているので埋蔵金が隠されたままということはないでしょう(^_^)

 2016年には、村上海賊関連の史跡等が、「”日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島-よみがえる村上海賊”Murakami KAIZOKU”の記憶-」として日本遺産に登録されています。

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