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会津騒動~恐怖のお萬の方

 「会津騒動」といえば、江戸初期に藩主加藤明成と家老堀主水が争った事件として知られていますが、実は他にも会津騒動と呼ばれている事件が伝わっていますので紹介します。

 事件は万治元年(1658)におきました。当時の会津藩主は三代将軍家光の異母弟である保科(松平)正之です。

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 正之は譜代大名内藤政長の娘菊子を正室として迎えましたが数年で死去したため、妾であったお萬の方(京都上加茂神社神官藤木織部の娘)を継室としました。

 お萬の方(聖光院)は4男5女を産みましたが多くが早世し、無事生育した正経が2代藩主となり、また、娘春子(援姫)が米沢藩主上杉綱勝に嫁ぎました。

 ところがその後、正之の別の妾であったおしほ(京生まれ)が産んだ松子(松姫・後に摩須姫)が加賀藩主前田綱紀に嫁ぐことになったのです。

 お萬の方にとっては自分が産んだ姉春子が米沢30万石で、おしほが産んだ妹松子が加賀100万ということに我慢がならなかったようです。

 松子の嫁入り前日、祝いのため春子が米沢藩邸から会津藩邸にやってきました。

 そして2人は対面し、祝いの膳が運ばれてきましたが、まず松子の前に置かれました。これを見た松子お付きの老女野村が「姉君より先にお膳がついてはなりますまい」と、その膳を春子に移させ、次に運ばれてきた膳を松子に据えました。

 この野村は松子誕生時に付けられた老女で、松子が4歳のときにおしほが死んだため親代わりに片時も松子の側を離れず世話をしていた人です。

 食事を終えて春子は米沢藩邸に帰りましたが、その晩から急に腹痛を訴え、容体はどんどん悪化して三日後にこの世を去ったのです。

 実はお萬の方が松子を毒殺するために毒を仕込ませたところ、野村が不穏な空気を察して膳を取り換えさせたといわれます。

 事件は公にはされませんでしたが、結果としてお萬の方は自分の愛娘を殺すことになってしまったのです。

 一説には、正之は事件に関係した者十数人を斬罪に処しますが、お萬の方は世継ぎ正経の生母であるため幽閉に留められたといいます。

 また、後に上杉綱勝が世継ぎがいないまま危篤に陥った際、お萬の方が産んだ正純(正経の弟)を上杉家の養子とする案が出たそうですが、正之は毒殺事件の負い目からこの話を断り、上杉家血縁の吉良家から養子綱憲を迎えることを斡旋したともいわれます。

 正之の死後、お萬の方は幽閉を解かれて藩主正経の生母として何食わぬ顔で過ごしたそうですが、正経も男子を得ないまま若死にしたため、会津松平(保科)家の当主もお萬の方ではなく別の側室が産んだ正容が継いでいます。

 ちなみに正経の弟正純も兄に先立ち若死し、正容が世継ぎとして会津からやってきた際には、正経は正容に対し、「決してお萬の方が住む上屋敷の奥向では食事をするな」と注意したといわれています・・・・・

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