安永の御所騒動とは、安永2年(1773)から翌3年(1774)にかけて、朝廷の経理・総務実務を行ってきた口向(くちむき)役人の不正が江戸幕府によって摘発され大量に処罰された、江戸時代最大の朝廷汚職事件です。
江戸幕府と朝廷財政
江戸時代の朝廷財政は幕府によって保護された山城・丹波のうち三万石の禁裏御料からの収入が主体で、不足分は幕府からの財政支援によって維持されていました。
しかし、当時費用が急増し、大規模な行事がなくても毎年幕府が多額の補填をするようになってきます。
御所には幕府役人も派遣されていましたが、会計を担う御賄所の実務は御所役人たちが務めて、そこから提出される会計書類に基づいて幕府が支出する形になっていたため、なかなか実態を明らかにすることはできませんでした。
このような中、安永2年(1773)7月に前任の長谷川宣雄(のぶお)(「鬼平」で知られる平蔵宣以(のぶため)の父)の死に伴い京都西町奉行に就任したのが目付であった山村良旺(たかあきら)です。
この山村は、幕閣から、問題となってきている朝廷の経理について不正を摘発するという重要な使命を言い渡されて着任します。
真相究明
京都町奉行の与力・同心等の役人も代々京都に居住する者であり、内偵は情報が漏れないよう慎重に進められました。
内偵のため、別途江戸から小十人や御徒衆らも送り込まれたのです。
内偵で来た者達は周囲に知れないよう、夜皆が寝静まったころに山村邸に来て打合せをして調査を進めたといいます。
やがて、関係個所の調べにより不正の事実が明らかになってきました。
御所賄所役人たちの横領は約10年前から始まり、初めは幕府へ提出する物品購入の伝票に付け加えやすいのがある時に少し水増しし、余計に受け取った金を横領していたのですが、バレないので、その額と回数が次第に大きくなっていったのです。
また、商人と結託して、元から不正に高値で取引した上で、差額分を賄賂として受け取る手口もありました。
余計に受け取った金は賄所役人で分配していたのですが、当初気付かれなかったものでも、どんどん規模が大きくなってきたので、ついに幕府から怪しまれるに至ったのでした。
更に、近年皇室から寺に寄進された幕の値段を水増しし、ある役人が京都島原の遊女を身請けしたとの話まで出てきました。
山村は、同年のうちに問題の寺に配下を送って物品を確認の上、出入りを禁止して情報が洩れぬようにし、京の商家に仏具代金の相場を確認して水増しの事実を確かめたのです。
そして、主だった者から捕えて取調べを開始し、更に真相究明を進めます。
調査に当たっては、宮中との余計な摩擦が起きないよう、関白まで伺いを立てたそうです。
手口は納入物品帳簿の水増しでしたので、納入商人の記録と突き合わせを行い、次々と偽装が発覚していきました。
また、商人たちから賄賂を受け取り、幕府役人を蔑ろにしていたことも判明したのです。
処罰
翌安永3年8月、関係者に対する処罰が下されます。
賄頭だった田村肥後守ら4名が死罪、5名が遠島となったほか、連座や御用商人たちも含め、数百人が追放等の処分を受けたのです。
横領に携わって処罰を受けたのは下級貴族ばかりでした。当初朝廷側も幕府の横暴だと憤慨し、穏便に済ませるよう働きかけたようですが、不正があまりに悪質だったため、結局処罰を容認したといわれています。
そして御所御賄所の改革も行われ、賄頭も幕府役人が務めるようになり、予算も厳しく定められ、完全に幕府の管理監督下に置かれるようになったのです。
その後山村は安永7年に勘定奉行に栄転し、江戸南町奉行なども務めています。
事件に関する逸話
ここで、真偽は不明ですが事件に関して伝えられている逸話を2つ紹介します。
女スパイ
幕府が不正経理について探索を始めましたが、なかなか手掛かりは掴めないままでした。
そのような中、探索をする旗本の一人に中井清太夫がある策を申し出ます。
その中井の弟が河内(大阪府)に住んでいましたが、その21歳になる娘が美人で賢かったにもかかわらず、結婚がまだでした。
苦肉の策として、この娘に持参金を付けて宮中賄所役人と縁組させ、内偵のために送り込むことにしたのです。
娘は全て承知の上で女スパイとして縁組することを了承し、準備が整うと娘は嫁入りしたのでした。
それから数カ月後、娘から中井の元へ詳細な文が届きます。
そこには、禁裏賄所役人の横領手口が詳細に記されていたのです。
役目を果たした娘は、その後病気を理由に離縁して里にかえったといいます。
近衛関白家への怨念
この事件に関して、もう一つ逸話を紹介します。
不正発覚の発端は、寺で寄進されたとの幕を見た関白近衛家の家来が不自然な点を見つけて調査したことによるというものです。
更に関白近衛内前(うちさき)の果断により処罰が決まったとのことで、不正役人の一人高屋遠江守が処刑される際、近衛家に対する怨念を口にして「この先七代近衛家に関白はやらぬ」と言い残して死んだとされています。
実際に内前のあとの近衛家は若死が相次ぎ、なかなか関白が出なかったため、高屋の怨念によるものと噂されたそうです。
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