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江戸幕府評定所の実話~元評定所留役明治の回顧談

明治24年に東京帝国大学の学者らが旧幕府関係者から聞き取り調査をした『旧事諮問録』から、江戸幕府評定所に関する話について、元評定所役人だった人の回顧談を紹介します。

【江戸幕府評定所とは】
幕政の重要事項や大名・旗本の訴訟、複数の奉行の管轄にまたがる問題の裁判を行なった機関で、町奉行、寺社奉行、勘定奉行と老中1名で構成された。これに大目付、目付が審理に加わり、評定所留役が実務処理を行った。

【答えた人】
元評定所留役、御目付、奈良奉行 小俣景徳
【補訂】
元外国奉行、御小姓頭取、御側御用取次 竹本要斎

評定所留役とは?

(あなたはいつ頃からお勤めになりましたか?)

天保十三年(1843)に初めて留役になりまして、それから文久(1861~64)の末に目付になり、御一新の一年前、慶応の三年(1867)に奈良奉行になりました。

(それでは天保の末から弘化、安政、万延、文久、元治、慶応の間をお勤めになったわけですか?)

左様。

(評定所留役とは、いかなるものでありますか?)

留役は一切の書類を書き留める役であります。元来は奉行というものが裁判官であって、留役に任せるわけのものではない。ないけれども却って奉行よりは下役の方がよいということで、留役に任せる。その留役は二十人いる。本来は書記官でありますけれども、その書記官に判事の役を兼ねさせたのであります。

(留役になるには、何か採用する法がありますか?いかなる者から採用するのでありますか?)

それは別に極まりはありません。軽輩からも出したのであります。本来は御勘定でありますから、御勘定評定留役という名称であります。

(それを人選するのは奉行でありますか?)

左様、奉行が人選するのであります。

(べつだん以前の経歴等には依りませぬか?人物さえ好ければ、見出だし次第、いかなる者でも任命したのでありますか?)

左様、人物さえ好ければ、別に履歴にも依らずして、任命するのであります。

(それは御勘定役の内からでありますか?)

まず御勘定にしておいて、而して留役を兼ねているのであります。御勘定が本官で、留役は兼官でありますから、誓詞も御勘定の誓詞であります。

(留役の内に分科受持というようなことはありませぬか?)

それには階級があります。本役、留役助(すけ)、当分助(すけ)とあって、三段になっております。総体合わせて二十人で、本役が十人、助が五人、当分助が五人であります。それがだんだん経験して、事慣れて来て本役になるのであります。けれども取扱うことになると、当分助でも何でも同様なることを取扱うのであります。それから本役の中に師匠番があって、最初のうちは、すぐに手放しても手続きが知れませぬから、その師匠番が輔翼することがあります。最初のうちは吟味の時には一と処に出て聴いております。そうしてだんだん慣れて来るのであります。

(然らば留役は幾人吟味に出ますか?)

幾人という限りはありません。

(留役は裁判のことばかりでありますか?)

左様、他のことは何もいたしませぬ。それでもなかなか忙しいものであります。今と違って、書いたり調べたり、判事と書記とを一緒にするのでありますから。

評定所の裁き

(白洲の模様はいかがでありましたか?)

左様、白洲と申すと、縁側のような所に畳が敷いてあって、その下に板縁があって、その下が砂利であります。つまり三段になっております。留役はその上段に坐って訴えを聴いたので、それも三口も四口も並んで吟味をしたもので、なかなかやかましいものでありました。何分当今と違って、叱りつけるのであります。チト圧制の気味がありましたが、しかし、それでなければ盗賊や図太い奴が相手ですから、生やさしいことではいけません。

(一つの吟味に、留役は幾人くらい出ましたか?)

むつかしい事になりますと二人でありますが、ちょっとした事件や博奕などは一人であります。例の国定忠治のような事件になりますと、二人掛りでありました。留役は自分で吟味をしながら、すぐに書くのであります。

(然らば奉行は、自分で吟味することはないのでありますか?)

イエ、最初の吟味は是非いたすのであります。それは留役が吟味をする仕方を半紙へ書いて、これだけのことをお聴きになさるようと教えるのであります。それゆえ誰にでも出来るのであります。今では裁判に予審もあれば始審もあり、また民事、刑事の差別もありますが、その時分は何もなく、留役が民事、刑事とも吟味をするのであります。奉行が最初に吟味して、それが判決すると、ぜひ口書(くちがき)を取ります。「私はたしかに人を殺した、まことに恐れ入りました」という口書を取って、無籍者なら拇印、印形(いんぎょう)のある者は印を捺す。また武士はたいがい花押であります。平民、無宿者は拇印であります。

(然らば最初の吟味を奉行がするのは、まず儀式というようなものでありますか?)

左様、それから留役が吟味をしようというには、別段に呼び入れて吟味をするので、それから真剣のことをするのであります。

(その時は奉行は立会っておりませぬか?)

通例は立会っておりませぬが、むつかしいことになると、うしろに屏風があって、奉行はその中で蔭聴きをするのであります。

(奉行が初めて吟味をする前に、下吟味がありますか?)

それはありませぬ。召捕者でもあると、勘定奉行には関八州取締という者がある。俗に八州と申すので、その八州が各罪人を召捕った場所場所において下吟味をいたし、申立てを残らず書いて口書にし、奉行に差出すのであります。留役はそれを見てから吟味をするということになるので、それまでは留役は何があるか一向知らんのであります。また下から訴え出たものには訴状があります。その順番には「何々がこういう不届をいたして、私の何々を殺した」とか、または検視先の書類がチャンとあるから、それを標準にして、奉行にこれだけのことをお尋ねなさいというのであります。

(それは評定所の話でありますか?)

まず評定所の方も宅吟味の方も格別には違いません。評定所で吟味をするには留役がするということはありません。五手掛りということになってくるとするのであります。

(五手掛りというのは?)

五手掛りのことは次に申述べますが、多く留役が吟味するのは、勘定奉行役宅でするのであります。町方の吟味は与力がいたします。

(然らば評定所の吟味はみな奉行がいたすのでありますか?)

左様、けれども三手掛り、五手掛りにならんと評定所の吟味はないのであります。これは当時の大審院の如きもので、大事件になると評定所になってくる。そうなるとまずは三奉行、即ち寺社奉行、町奉行、勘定奉行の三手掛りになる。それに更に大目付、御目付の加わったのが五手掛りで、これは大事件でなければならないのであります。

(あなたは桜田事件を、親しくお扱いになったのでありますか?)

左様、ああいう事件になると五手掛りになってくるのであります。私なども調べましたが、まず奉行が吟味をして、その後に留役が出てするので、あれは宅吟味ではないのであります。いつでも評定所で留役が吟味をするのであります。かの仙石騒動の如き大いなる事件はみな評定所であります。

(五手掛りの時は、誰が一番主として吟味をいたしますか?)

上席は寺社奉行であります。それから大目付、町奉行、勘定奉行、それから御目付が留役の横に坐っております。

(補訂)このうち、町奉行が最も老練ゆえか、主として口を利きます。

(もし説が違う時はどういたしますか?)

その時は内坐へ行って相談をします。それは溜りと申して、奉行たちが別に休息する座敷がある、その溜りへ行って相談をするので、それを内坐と称(とな)えるのであります。

(その相談を決定する時には、何か別に規則はありませんか?)

別に規則はありませんが、銘々存じ寄りが違ってくると、老中へ御伺いということになり、寺社奉行は寺社奉行、町奉行は町奉行で、銘々上へ持って行って伺うのであります。

(もし三奉行とも同一説であれば伺わぬのでありますか?)

左様、ただ許可を受けるだけであります。

(そこで判決してしまうと、それより上へ訴える道はありませぬか?)

それはありませぬ。極めるにしても残らず調べをして、上(かみ)の指図を受けるのでありますから、かの桜田騒動の如きも、更に老中へ伺って許可を得たものであります。

(しかし、たいがい罪の当たりはしておくのでありますか?)

左様、たいがい罪の当たりは決めておくので、伺書(うかがいしょ)は美濃紙で出来ているので、その下に生紙(きがみ)というもので、その科(とが)の次第を附札(つけふだ)をして、そして先例を引いて、これは何々の科でございますから、御定書百箇条により何々の罪科に当たりまするとか、中には決定し難いものは例書を持って来る。それには以前に仕置を受けた者の例が書いてある。その帳面が何百冊もあって、それから繰り出すのであります。御定書には何とあるが、こういう次第で直ぐに罪科も分からんから、なお調べたるに、むかし文化の時分にこういうことがあって何々を申付けた例がある、その例によって死罪なら死罪、遠島なら遠島という仕置の附札をするのであります。

(それは留役がいたしますか?)

左様。

(再吟味はありませぬか?)

あります。再吟味は自分からすることはないが、上から下がってくるので、滅多にないのであります。仕置に当たるかどうかと上で決しないことがある、そういう時は評定所一坐の評議に下がるのであります。三手掛り五手掛りの三奉行は一人ずつでありますが、評定所一坐は寺社奉行四人、町奉行二人、公事方勘定奉行二人、これを評定所一坐という、これへ下がるのであります。これは掛りでない者に下がるので、それが前申した内坐において評議をする、その時は前の掛りの者は欠席するのであります。「これは不相当である、なお私どもが取調べたところが、先例にこういう旧いことがあるから、このたびの伺いはよろしくない」とか、または「このたび奉行の伺ったのは至極よろしいから、この通り仰せ付けられてよろしい」というような評議をするので、評議をしてその書面を上(かみ)へ奉るのであります。上では仕置掛りの御右筆が調べるのであります。それから御老中へ出して、それがよろしければ、よろしいと下がってくるのであります。

(然らば吟味の時に評定所へ出る奉行は、一人一人出るのでありますか?)

左様、上(かみ)からしてこの男ならよろしかろうというので、仰せ付けられたのであります。桜田騒動などには寺社奉行は松平伯耆守、町奉行は池田播磨守、勘定奉行は山口丹波守、大目付は誰、御目付は誰といって仰せ付けられたのであります。

(吟味は秘密でありますか?)

まず秘密であります。

(極めて秘密でありますか?)

留役が調べている分は、掛りのほかは秘密であります。

(罪人も調べるのでありますか?)

そうではないので、吟味の付くところだけであります。罪人には掛からんのであります。

(科人(とがにん)の方から再吟味を申立てて、再審をしてもらうという道はありませんか?)

それもないとは言われませんが、まず言わせないようになっているのであります。

(然らば再審の道は全くありませんか?)

奉行には私曲のないものと見ているのです。種々下から訴えて「こういう吟味がございまして、こういう裁判を受けたけれども、これでは私共の村方が困る」などと大概は利害をいうのであります。それが賄賂でも取ったとかいうようなことになれば、吟味を仕直すのであります。

(その時は再吟味を始める手続きというようなことがありますか?)

それはあります。けれども上から下がってくるものは、前の掛り役人は除いて、他の者に申付けるのであります。

(上からそういうことを見つけて吟味させる時はそうでありましょうが、下からそういうことを探知して、これは賄賂を取ってこちらを非分にしたということから、再吟味を請求する道がありましたか?)

あります。そういう時は、その奉行がしくじるのであります。

目安箱(函訴)の扱い

(函訴(はこそ)というのがありましたか?)

諸役人に私曲非分のないように、何かあったら告訴いたせというので、函訴というのがあります。これは老中も見られません、すぐに御前にあがってしまうのであります。

(その訴状を入れる函はどこに出ていましたか?)

函は評定所の門前に出ていて(毎月二日、十一日、二十一日)、誰にでも入れられるようにしてありました。一名目安箱とも申します。

(その函はどういう順序で将軍家の手許まで行きますか?)

それは訴状が入りますと、すぐにピンと錠をおろして、お城へ持たしてやるのです。それからすぐに将軍家のお手許に差出すので、その内容は老中といえども、途中で知ることは出来ませぬ。それは老中自身が告発されていないとも限らないからであります。

(しかしそれは表向きであって、実際は途中で誰かが見るというようなことはありませぬか?)

それは決してありませぬ。けれども、これは怪しいというようなことがあると、老中へ下がってきます。函訴から出た吟味は幾度もありました。伏見奉行をした小堀遠江守は函訴から遂に家が潰れてしまいました。あれは賄賂でありましたナ。

(訴状は余程たくさんはいっていましたか?)

左様、かなり入っていましたな。始終函を振ってみたものでした。けれども、中には私怨で入れたり、いい加減のことを書いて入れる者もあるから、そういうものはよく探索をするので、それが目付の方へ下がってくるのであります。とにかくあれは至極よい主意のことでありました。

(訴状はかなり採用されたものですか?)

イヤ、それが採用されることは滅多にないのであります。一年に一度あるかないかであります。将軍家が誰が何をしたとか、老中も知らぬことを知っておられる。八代将軍はそういうことが得手(えて)で、自然諸役人も悪事は出来なかったのであります。

(函訴はいつ頃から始まりましたか?)

八代将軍の時でありますから、享保頃でありましょう(享保六年八月)。

賄賂はあった?

(賄賂でありますが、留役などには行われましたか?)

賄賂の一条においては、留役はなかなかそれは出来ませぬ。旧幕の役人はずいぶん賄賂を取ったなどと申しますが、なかなか取れぬものでした。私は二十年余りも勤めましたけれども、賄賂沙汰でもありますと、すぐに言付け口をされますから、なかなか取れるものではありません。ところがある時、私が賄賂を取ったという貼訴(てんそ)がありました。貼訴というのは奉行所の門に、何某がこうこういう悪事をしたという書付を貼り付ける訴えで棄訴ともいうものですが、私がある医者から賄賂を取ったということを貼られたのです。そこで私も大きに怒って吟味を願うと、すぐにその医者を召捕ってきて、厳重に吟味をしたところ、まったくその者の私怨からの誣告とわかりまして、その医者は処罰されました。賄賂を取るのは法度で、重いのは死罪、軽くて遠島であります。殊に吟味筋に掛かる賄賂は、別して厳重であったのでありましたから、滅多なことは出来ぬのであります。それでも、だいぶん賄賂で仕置になった者がありました。留役の中にも二,三人はありましたでしょう。

多かった民事事件

(公事(くじ)は民事と刑事とはどちらが多かったのでありますか?)

左様、ただ出入(でいり)と称えるものが民事であります。それには原告、被告があったので、それで出入と称えます。

(やはり刑事の方が多いですか?)

イヤ、民事もなかなか多いのであります。家督争い、田地争いなど、多くありました。

(かねて聞きましたが、昔は民事の争いは、坊主が多かったということですが。)

一体、出家というものは公事の好きなものであります。それは寺社奉行の受持でありますが、宗旨の事などからも、ややもすると訴え出るのであります。東西両本願寺なども極めて仲の悪かったものであります。

(御朱印地の争いなどは随分多かったのでありましょう。)

寺社地の争いは、昔から多いものでした。当今はその県々ですましてしまうようで、至極よろしいことです。

(貸金催促などの訴えは、稀でありましたか?)

イヤ、それは大層あるので、却って今よりは多かろうと思います。

(負債のある者が支払わぬというと、すぐに身代(しんだい)を調べたものでありますか?)

今のように滅多に身代限り(全財産没収・破産)ということはいたしませぬ。昔は身代限りをさせないので、貸金出入を願えば、勧解(かんかい)をするのであります。困窮な者なれば、或いは年賦とか何かにさせて、容易に身代限りにさせない。身代限りもないことはないが、私などは永いあいだ勤めましたが、身代限りは一度もさせませんでした。そのくせ金の出入は数口あります。一人で五十口も持っておりましょう。返せない者には永年賦にしてやるのです。なお、昔は八判ということがありました。金公事の八判というのは、三奉行が連印をして、貸金を安く取扱うたものであります。田舎などでは百人も二百人も被告を書いて「誰には五十両、誰には三十両」と、西の内の紙に長く書いて「右之者共に貸しましたが、返してくれませぬから、何卒取ってくれ」という訴状を奉行へ上げます。そうすると寺社奉行が首判となって、初めて判を捺す。それから町奉行、勘定奉行連印でございます。それに裏書がある。来たる幾日調べをするからというので、それが式日、立会、内寄合であります。そのうち金公事に限って毎月四日、二十一日であります。右両日を金日(かねび)と称えて、来たる四日とか、二十一日とか評定所に出て調べるということになるので、現地ですむべきことなれば済ましてしまうので、これを八判と称えます。これを頸(くび)に掛けて持って行って、借金の始めの人の所へ行って渡すのであります。それから次々にズッと廻すと、どうしても返さねばならぬものは仕方がないから、すぐにその土地で内済(うちずみ)にしてしまう。それゆえ、「私は残らず済まし方をするから呼び出さないでくれ」と言えば、出ないですんでしまうのであります。多きは五百人位を相手取ります。そのうち済まし方をしない者が、四日か二十一日に評定所まで出て来なければならぬことになり、そこで初めて奉行の吟味を受け、「どうでも借りたものは返さねばならぬ」と叱られ、その後は留役の吟味となるのであります。

(今の八判の書類を持って行くのは何者がいたしますか?)

それは原告が持って行くのであります。桐の箱が出来ていて、それを頸に掛けて行くのであります。たいがい五百人相手があっても、三百人位で済んでしまうのであります。

(その時分の利息は、いかほど高くても払ってしまいますか?)

それは相対次第であります。

(利息はいかほど高利でも取ることができましたか?)

それには規定がありました。まず二十両一分、十五両一分くらいが極(ごく)であります。その上を貸したら高利であります。高利貸は追放でありました。

(三十年も四十年も前の借金でも訴えることが出来ましたか?但し年限がありましたか?)

棄捐(きえん)ということがあります。

(今の内済(ないさい)と先程の内済(うちずみ)とは違いますか?)

あれは内済をうちずみと訓読したものでありましょう。

評定所の会合

(評定所には式日と大寄合と立会があったようですが、その区別は?)

評定所の寄合は、式日が二日、十一日、二十一日であります。この日は留役は明けの七ッ半に出るので、今の四時位でありましょう。暗い内に出るのであります。老中も必ず出ます。そうして公事を蔭聴きするので、障子内で聴いているのであります。

(大寄合は?)

これは内寄合のことでしょう。奉行の宅で寄合うのであります。六日、十八日、二十七日、これは月番の奉行の宅に寄合って、相談するのであります。それが内寄合で、三奉行各々別になるのであります。

(式日のほかに大寄合というのはありませぬか?)

大寄合というのはありませぬ。

(それでは内寄合が大寄合のようなもので、式日と内寄合のほかに、評定所で吟味することはありませぬか?間(あい)の日も吟味はありませぬか?)

評定所の吟味は、内寄合で持出すことはないのであります。評定所の吟味について寄合をしようというには、評定所でいたします。これは五手掛りのことについて、寄合うことが幾度もあるのであります。これは臨時にあるのであります。式日のほかに立会が四日、十三日、二十五日、これは朝少し明るくなって出掛けるので、立会には老中は出ません。

(式日の事柄と立会の事柄とは同一でありますか?)

左様、どういうわけで分けたのでありますか。老中が出るから式日というのかも知れませぬな。本当の寄合は式日になるのであります。その他は奉行が吟味をするについて、三回の立会日を極めたのであります。

(評定所の吟味の模様によっては、臨時に幾度も立会をするのでありますか?)

臨時に式日、立会はありませぬ。五手掛りとなると別のことになります。

(然らば式日の時と五手掛りの時との事柄は、いかなる違いがありますか?)

式日は定まった時で、今の通り老中が出席するのであります。その公事に八判が出てくるので、通常民事の地所の争いなどは、指日(さしび)といって日を極めたり、また立会の日にもするのであります。指日というのは、たいがい期日を見合わせて、常陸の国なれば凡そ三十日もあったらよかろうと、そこで来月幾日といって、指日を極めてやるのであります。

(式日、立会の吟味の事柄は?)

別に変ったことはありませぬが、五手掛りの方は吟味物と称える。これには今の八判のようなことはないのであります。

(式日、立会に八判というものが出るのですか?)

左様。

(五手掛りの事柄と、五手掛りでない事柄の区別は誰が極めますか?)

それはおのずから大事件なれば、是非五手掛りでなくていかぬから五手にするのであります。

(それはやはり先例で見るのですか?)

三手掛りは事柄が軽いのであります。徳川の時分は、目見(めみえ)以上は取扱いが格別でありましたから、そういう者が吟味を受けるようなことがあれば、奉行ばかりでは吟味が出来ませぬ。そこで御目付が立会うから五手になる。評定所では五手掛りの方が多かったのであります。

(式日に出る三奉行は、各々一人ずつでありますか?)

皆出るのであります。それに御目付が出る、大目付は五手掛りのほかは出ません。それから徒士目付が出ます。

(然らば民事も、主に式日にいたしますか?)

民事が多いのであります。その中から刑事が出てくる場合もあります。つまりその吟味中に、人を殺したとか、公儀に対して済まぬ事があったとかいうことが分かって、刑事になることもあります。

(然らば立会の方で調べ始めて、それが五手掛りになる場合もあるわけですか?)

左様、式日、立会にはかかわりませぬ。大事件は別物で、三手掛りから五手掛りになることもあります。

(軽ければ三手掛りで済むわけですな。)

左様であります。

(評定所の中に改方(あらためかた)はありませぬか?)

評定所の改方は、会計や何か、主に世話役であります。これは同じ勘定役から出ているのでありますが、多く老人に申付けるのであります。

(もし幕府で金を借りていて返さぬ時は、やはり訴訟にいたしますか、或いは嘆願にいたしますか?)

それは決してありませぬ。幕府で金を借りるのは御用金でありますが、これは必ず返すのであります。

桜田門外の変

(桜田騒動はいかがでありましたか?随分むつかしゅうございましたか?)

左様、なかなかむつかしゅうございました。最初は寺社奉行松平伯耆守が吟味をした時は、刎ね返してきてなかなかいけませぬ。それから町奉行の池田播磨守が吟味をいたしました。この人は公事はなかなか上手と聞きましたが、それでもかなり面倒でありました。

(被告たちはいかなることを申しましたか?)

ただ攘夷鎖国のことで幕府の処置がよろしくないということを第一にして、掃部頭(かもんのかみ:大老井伊直弼)に私曲があったことを申したので。ほかの私曲でもありませぬが、あの時分に金の格が大層違ってきた、それは掃部頭が改鋳の触の出る事を知っていて、金貨の買占めをさせて儲けたことがあるというのであります。

(それは事実あったことでありますか?)

あったようでございます。第一、掃部頭が勅許を得ずして、外国と条約を締結したのは、朝廷へ対してこの上もない反逆であるから殺したのであるという主意でしたが、内実は慶喜を入れる入れないということもあったかも知れませぬ。

(今のお話の大老が金をどうとかして利益を取ったということは、どういうことでありますか?今でも大蔵大臣がどうとかするということがありますか?)

しかしそれを吟味すると、上(かみ)にまで及びますので。それに先方もそれは枝葉で、あくまで攘夷と条約締結が表向きになっておりますので。

(それで桜田騒動の十七人は、いかなる風に吟味がありましたか?一人ずつでありますか?)

一人一人であります。たとえ陳ずるところが理に当たっておろうとも、幕府の大老を殺害するというのは大罪です。もっともその節、井伊家から届けの旨は、疵を受けたというだけで、首を取られたとは言わぬのでありますから、そこらが妙で。

(水戸浪士の方では、吟味の時に、私は一向関係はない、というようなことはありませんでしたか?)

それは立派に自白しております。

(大老を殺したということも言っておるのでありますか?)

申しておるのであります。しかし井伊家の方では、先程も申す通り、首を取られたとは少しも言わんのであります。

(その吟味は、どういう風に吟味しましたか?首を取ったというのではない方の吟味でしたか?)

左様、「重き役人に傷をつけて、いかにも不埒ではないか」と言うと、しまいには「恐れ入ります」ということになって、そこで拇印を取って切腹でございます。最初の勢いはなかなか烈しかったのですが、三度五度となると段々やわらくなってきて、そうして、恐れ入ったという所まで行って拇印を捺したので、みな死を決しておりました。

(一人一人呼び出しても、話の変わったことはありませんでしたか?)

少しも変わりませぬ。評定所へ出た者は僅か十七人でありましても、援兵が沢山あったようで、もっとも、それは吟味をいたしませんが。

(吟味はどのくらい掛かりましたか?)

小一年掛かりました。最初三月三日からその歳中掛かりましたが、余程むつかしいものでした。中には死罪がよろしいと言う者もあり、私共は切腹がよろしいという方でした。何となれば元々悪心を以てしたのではない、国のためを思ってやったことであるから、まず赤穂浪士が吉良を討ったのと同じことである。但し自分自身に対しては忠義に殉じたわけであるが、幕府に対しては大法を犯したわけであるから、死を賜わるのがよろしい、死罪に行なうわけにはいかんというので、それで永く手間取ったのであります。切腹も死罪も首を斬られる段になっては同じでありますが、ただ武士の名分があるからであります。

刑の執行(切腹・追放)

(切腹の時は検視が立会いますか?)

たしかには心得ませんが、徒士目付が立会いましたろう。

(首を落とす時は、皮を残すということを聞きましたが、まったく左様でありましたか?)

イヤ、そういうことはいたしません。

(死罪の時は役人は立会いませんか?)

死罪の時は奉行は行きません。徒士目付が行きます。小人(こびと)目付も行きます。それに、かの石出帯刀も出ます。首斬りは山田浅右衛門がいたしたのであります。一体は同心がいたすのであります。

(武士の追放の時は、大小を取り上げますか?)

吟味中は取上げて、追放の時に渡すのであります。

(江戸の中で渡したのですか?)

牢屋の門前、又は評定所の門前、奉行所の門前、その都合により町外れでも渡しました。

(江戸境まで人が附いて行きますか?)

左様、それにはたいがい場所が決まっていて、この近所なら千住辺りまで附いて行くので、早く言うと場末へ連れて行って逐い放すのであります。

(旧幕の時分は、少しむつかしい者は一向吟味をしないで、牢の中で一服飲ませて殺すというようなことがあったそうですが、まったくでありますか?)

左様なことは決してありません。牢屋にも規則があって厳重なものですが、ただ牢名主というものがあり、事によるとそれがやったかもしれません。

(留役などから薬を出すというようなことはありませんか?)

左様なことは絶対にありません。

(むつかしい罪人であると、吟味をしないで、いつまでも牢に入れておくということはありませんか?)

左様な卑怯なことはいたしません。

(ところが御一新前に、廻船方御用達という者があって、それが今の千歳座(日本橋久松町)の辺にありました。それへ大坂から二人来ておって、その一人が今海軍省の狩野次郎作。こちらの廻船方は二百軒ばかりあって、それが喧嘩をして、吟味中入牢(じゅろう)ということになったが、すでに一服のませられる塩梅になってきた。当時の勘定奉行は川路左衛門尉で、そのとき小普請に羽倉外記という人があって、この人が狩野と懇意であったものだから、まことに不憫であると川路に言って、川路が出してやったことがあるそうです。これは私が狩野から親しく聞いたところでありますが、実に危ないことであったと言います。どうもあの時分にはそういうことがあったように思いますが。)

成程、そう言われればあったかも知れませぬ。仕方がないのは、食事を扱う牢屋敷の者が、せいぜい五両か七両くらいを取る軽輩で、この者らが賄賂を取っていたしたものでしょう。

(そこらは取締りはつかぬのでありますか?)

奉行もなかなかそこまでは取締れぬようでした。

奉行の人材

(旧幕の末には詰まらぬ者が奉行になり、実際はすべて留役が行ない、奉行はただ人形のようなものであったろうと思いますが、いかが?)

奉行は軽いことも知らねばならぬから、留役から奉行になった者も幾人もあるので、佐々木信濃守など、また今の川路も留役であったので、すでに御一新の時に、幕府の滅亡を哀しみ、自分の菩提所へ行って切腹して死んだくらいの人で、よほど潔白な人と見えました。

(あなたの時分の奉行は、大抵は詰まらぬ愚物でありましたか?)

左様、愚物が多うございましたナ。しかしまったくの愚物でも奉行にはなれませぬ。ちっとは話が出来んではいけませんから。

(実際のところでは、実権は留役の方にあったのですか?)

左様、これは何とも申上げ兼ねます。

(あなたの時分にはいかがでありましたか?)

奉行の中にはずいぶん名奉行もあったのであります。

(旗本にはずいぶん愚物があったそうですが。)

それはどうしても知行を得ていて暢気ですから、こんにちの事情に疎くなるのであります。

(その旗本から奉行が出るわけですが、中には成り上がりの奉行もはいっておりましたか?)

たいがい一人くらいははいっておりました。

(然らば実権は、実力のあるその奉行に帰するでありましょう。)

左様、まず多くはそうなります。

(評定所などで実際事務を取扱って行くのは、軽い身分の、申さば海に千年、河に千年というような者が、取り仕切っていたのではありませんか?)

左様、しかし旗本の中にも偉い人もおりました。小栗上野介などは三河以来の御譜代でした。

拷問のやり方

(話は違いますが、拷問の時はどうでありましたか?)

拷問は牢屋敷の内でいたすのであります。たとえば人を殺したに違いない、証拠もチャンとあるのに白状せぬ。種々陳じ立てる。そのような場合仕方がないから、牢屋敷へやって拷問するのであります。まず石を抱かせるのであります。玄蕃石を一枚載せ、二枚載せ、三枚載せるというようにして、ひどくなるとゆすぶったものであります。それでも強情な奴は白状しませぬ。その拷問は、牢屋の与力と同心が出てするのであります。

(ほかに聞く人はありませぬか?)

それはおりませぬ。これまでに罪状を調べたが白状せぬから、これこれの事を聞けという書付が来ておるから、それによって拷問するのであります。

(青木弥太郎という者がおりましたナ。)

左様、ああいう者になってくると、拷問に掛けるのでありますが、それでも遂に言わんでしまったのであります。

(あれは強盗でしたな。)

左様、それに詐欺もある。

(それから坪内五郎左衛門、あれも拷問でしたか?)

左様、あれも拷問されました。

(拷問は八代将軍の時に止められたと聞いておりますが、また起こったのでありますか?)

イエ、なるべく拷問はするなと言うのであります。それゆえ滅多にないので、一年に一度あるかなしかであります。

(拷問の仕方は、たいがい石を抱かせたものでありましたか?)

イヤ、海老責めというのがあります。梁に吊し上げて、顔が肛門につくようにしたのであります。しかし、たいがいは石でありました。

(ひどいのは背骨の所へ、煮えた鉛を入れたということですが、いかがですか?)

あれは昔のことでしょう。忠臣蔵の天川屋儀兵衛などはそうだということですが、さて、どうでしたか。

(うつつ責めとか、眠らせない責め方もあったように聞きましたが。)

さあ、それもありませんようですな。

(何か食べ物を与えぬということがありましたか?或いは塩をやらぬとか、水をやらぬとか。)

それは決してないのであります。それらの法律は徳川氏になってから決まって来たので、昔はそれがないために石川五右衛門の釜煎(かまいり)など、残酷なことをしたのであります。

(けれども通常の人が、自分から拷問の仕方を発明するというようなことは出来ませんか?)

決してないのであります。みな従来の拷問の仕方であります。石を抱かされるのはたまらぬそうで、たいがいの者は気絶をするそうであります。

(つまり白状するまではやめないのですか?)

左様、申上げますと言うと、すぐに取除けて、医者が療治をするのであります。

(白状しなければ罪に落とすことは出来ませんか?)

左様、口書爪印を取らねば、罪人に決めるわけには行きませぬ。

(つまり口書に拇印を捺さねば、いつまでも牢屋に打込んでおくのでありますか?)

左様、どうも仕方ありませぬ。

(入牢の年限はありましたか?)

それはないようでありました。

(評定所留役が、長州征伐の時に何か嫌疑を受けて、腹を切った人があったそうですが?)

あったかも知れませぬが、それは憶えておりませぬ。

御定書百箇条の刑罰

(判決の時に参照した書物は、主に何でありましたか?)

御定書百箇条であります。

(鋸引などは往々ありましたか?)

あれは百箇条の中にはありますが、実際にいたしたことは決してないので、あれは主殺し親殺しとか、そういう重罪の者に限るのであります。

(主殺し親殺しは随分あったものでありますか?)

ありましたが、刑は磔でありました。鋸引は罪人を七日の間、賑やかな所に晒しておき、誰でも引きたい者は勝手に引けと、竹の鋸を添えておくので、つまりそれで首を引くのです。それから磔に掛けるのでしたが、私共の時はありませんでした。

(火焙りはありましたか?)

ありました。あれは放火の刑であります。

(実際ありましたか?)

随分ありましたな。一年に五人も七人もありました。

(火焙りは御覧になりましたか?)

イヤ、私は見ませんが、茅か何かで燃やすのであります。十文字の柱へ縛りつけて、下から燃すのですが、その前に既に死んでおるのでありましょう。

(獄門というのは、首を晒すのですか?)

斬首した首を獄門台の板にのせて晒すのであります。場所は刑場のあった千住の小塚原か、鈴ヶ森であります。

(磔になった奴も獄門に掛けるのですか?)

イヤ、磔には獄門はありませぬ。磔に掛けた者は、三日の間そのまま其処において晒します。獄門は死罪の中で重い奴をするのであります。

(絞罪はありませぬか?)

トンとありませぬ。

(磔になると、穢多の段左衛門が錆びた鎗で、双方から突くということでありますが、左様ですか?)

イヤ、これは牢屋敷にある鎗で、非人が持って出て突くのであります。引廻しの時に鎗を持って供をして行くのであります。その先に紙幟(のぼり)をもつ者がいて、その幟に何々の罪にて磔に行なうものなりということが書いてある。磔も火焙りも町中引廻しの上、刑場において行なわれます。また引廻しの上獄門というのがあります。これは引廻しの上、死罪にて獄門に掛けます。

(斬罪には獄門が附くのでありますか?)

罪の軽重によって附くのであります。

(罪科を捌きますに、徳川氏の末までは、百箇条によってのみ裁判いたしたのでありますか?)

百箇条にあります通りの罪科を犯す者があれば無論でありますが、種々条件も変わって彼の通りに行かぬ時は、それぞれ沢山先例がありますから、その先例と符合するものを以て、判決をするのでありました。

(然らば代々の伝書とかいうものがありましたか?)

左様、あれは評定所で出来ましたもので、仕置類聚というものがありました。それも皆、司法省にありましょう。罪科の種類を分けて書いてあります。あれも三十巻くらいはありましょう。

具体的な刑罰事例

(あなたが多くお手に掛けられたのは、どういう種類でありますか?)

私の扱った一番の事件は桜田の一件で、それからその前に五手掛りの一件がありました。それが橋本左内や、吉田松陰などを扱った事件でありまして、その時分私は留役でありましたが、あれが掃部頭の殺される原因であります。

(左内は斬罪でありましたか?)

左様、松陰も斬罪であります。頼三樹三郎、水戸の鵜飼吉左衛門も斬罪でありました。

(普通刑事にては、いかなる罪科が多いのでありましたか?)

まず盗賊、博奕、人殺しの如きものでありました。それから詐欺師と申す者を、当時巧事(たくみごと)と称えまして、これも重きは死罪でありました。

(強盗は磔でありましたか?)

強盗は引廻しの上獄門になるのが極刑で、かの日本左衛門とか鼠小僧の如きも引廻しの上獄門でありました。

(然らば磔になる罪科はいかが?)

贋金遣い、親殺し、主殺しの如きもの、或いは不軌を謀るものとか、謀反筋のようなものは磔であります。しかし、そういう方は稀であります。

(関所破りは沢山ありましたか?)

関所破りも磔でありましたが、つまり関所破りなどを引出すのは奉行の恥辱でありますから、実際の犯罪者は随分多いのでありました。

(強盗を働く者の種類は、士、農、工、商、いずれが多くありましたか?)

一概に申せませんが、農が多いようでありました。まず上州辺から多く出たようであります。

(かつて聞きましたが、強盗には穢多が最も多かったということですが、いかがでありましたか?)

左様からも知れませぬ。強盗の中にも私の存じております中では、国定忠次の如きはまず親分と申しても然るべき者であろうかと存じます。彼は貧民を救おうという侠客でありました。召捕ろうと思っても捕えることが出来ぬのでありました。なぜなれば、国中でも恩を被った人が沢山おりますから、忠次を召捕りに来たと聞くと、直ちに注進するのでなかなか掴まえることが出来ませんで、十余年間その行方が分からずにおりましたが、中気を病んで妾宅におる所を捕えられたのでありました。

(あれは磔でありましたか?)

左様であります。関所破りでしたから磔であります。

(天保年間でありましたか?)(嘉永三年処刑)

私の勤めておる時分でありましたが、あれは同役の掛りで、召捕って来たというので見ましたが、定めて大悪人の相貌あらんと思いましたら、案外柔弱の様子で、柄も小作りでおとなしい、まず人惚れのする格好でありました。

厳罰だった不義密通

(有夫姦は沢山ありましたか?)

間男はありましたナ。

(間男が知れると、官にて男女共に捕縛してもよろしかったのですか?)

左様であります。

(その本夫の申立てによっては、罪を軽減するというようなことはありませぬか?)

そういうことはありませぬ。

(姦夫姦婦とも斬罪でありましたか?)

左様であります。随分斬ったものでありますが、これも、奉行が間男などを引き出すのは恥辱でありました。

(和姦でも罪になりましたか?有夫姦でなくても。)

少しのあいだ謹慎でも申付ける位のことでありましたろう。元々相対(あいたい)事件でありますから。

(たとえば主人の娘と家僕と通ずるようなのは、通常の和姦とは条件が違いますか?)

それは同一であります。

(主人が手討にするのは勝手でありましたか?)

それはよろしいのであります。しかし急度(きっと)した極まりはありませぬ。

他役所、大名との関係

(それから諸藩の町人と江戸の町人との間に起こった訴訟事は、どこへ訴えますか?)

それは争い方の持場の区別がありますから、関東の中にて願い出ることがあれば勘定奉行へ願うので、即ち関内でありますが、関外なれば寺社奉行へ願うのであります。江戸町方(まちかた)は町奉行の持場であります。いずれも原告の居所によって持場が違うので、関内と関外の差別があります。近辺にて相模、下総の如きは勘定奉行の支配であります。伊豆からあちらで関外になりますと、寺社奉行の支配になります。もっとも、寺社の訴訟は関内でも寺社奉行の掛りであります。

(然らば諸大名の領内の者と、直参の者との間に起こった公事はいかがでありましたか?)

それもやはり原告の居所によって、関外関内の差別があるのです。

(大名の許へ持ち出すことはなかったのですか?)

それは大名の領内に限ることならば、大名の許で裁判いたしたのでありますが、その関係が支配違いに及ぼし、代官の支配下の者などを被告にすれば、是非とも奉行へ持ち出さなければなりませぬ。

(たとえば上州辺の町人が、江戸の町人に金を借りて返済せぬ時は、江戸の町人は勘定奉行へ訴えなければならんというのでありますか?)

左様であります。しかしそういう時は、たいがい勘定奉行からその藩へ使者を立て、そのことを申しやります。藩の方でも訴訟にすると面倒ですから、出来れば何とか解決をつけてやるというようなことが多くなっておりました。正面から申せば、ぜひ江戸の町人から勘定奉行に訴えるのが本当であります。

(公事を一旦取上げて、なお内済にさせようという見込みで、その判決を永引かせるということはありませんでしたか?)

左様、これは裁判をすると後の納まりが悪いとか、むつかしいとかいう時には、理解ということをいたします。「其方はかように申すが、これはこういうわけであるから、これだけで勘弁しろ」とか扱いますので、なるべく内済を旨といたしたのであります。

(しかし、それが江戸に永く滞在する結果になり、費用なども嵩み、有難迷惑だというようなことはありませぬか?)

左様、中には三年くらいも掛かって決せぬこともあり、その中にはなるたけ内済にさせようと思って、永く掛かったのもあったかも知れませぬ。

(評定所の裁判と町奉行の裁判とは、その種類に変わったことはありませんか?)

左様、種類に変わったことはありませんが、町奉行は町方のことを吟味するのであります。

(評定所の立会に、町奉行の与力が出ることはありませんか?)

左様、式日、立会にも出ます。かの五手掛りの時は、留役下調べの時に限り、掛りの与力が立会に出ております。

(与力が奉行の吟味を聞いていて、何か書取るようなことはありませぬか?)

書取ることは見たことはありませぬが、留役が吟味をする時に、留役の横坐にいて、聴いておりました。

(与力が吟味をすることはありませぬか?)

それは評定所においてはありませぬ。

(五手掛りの時には、誰でも勝手に口を出してよろしいのでありましたか?)

五手掛りならば、各々口を出してよろしいのであります。

(寺社奉行が是(ぜ)と認めて吟味する時に、町奉行が非として、争論になるような場合はありませぬか?)

争論と申す程に角立つことはありませぬ。吟味のうちは奉行が各々意見が違うなどということは、滅多にありませぬ。大概は同じことであります。

(むかし目安を読むのは儒者であったということでありますが、いかがでしたか?)

寛政頃までは儒者でありました。

(その儒者が出ないようになってから、誰が代りをいたしましたか?)

留役であります。留役は目安も読むので、かの八判の如きもののみならず、すべての訴訟の目安を、奉行の前にて、たとえば「恐れながら書付を以て申上げる、私村方の地面は云々」から相手方の名前まで読み上げます。目安の中にはむつかしい字があるから、儒者でなければ読めまいというので、寛政頃までは儒者を出したのでありますが、それほど読みがたいものでもありませぬから、儒者を出す必要はないと廃してしまい、留役が代って読むようになりました。その役を目安読(めやすよみ)と称えました。

(町奉行の方には割合に公事のことが多く、評定所の方には普通の出入(でいり)が多いと聞きましたが、いかがでありますか?)

左様、民事の出入が多いゆえ、自然出入のことは勘定奉行の方の掛りに多いのでありましたが、町奉行の方にも少ないとは申されませぬ。盗賊とか博奕とか人殺しとかは刑事でありますが、刑事も民事も公事と言い、また出入と言いました。

(どれほどのことは郡代、代官に捌かせるという制限がありましたか?)

それは極まりがありまして、その代官一支配内は取捌かせますが、小さいことでもその事柄が他領地に係れば、九州の端からでも出て参ります。また薩摩領と肥後領とに係った出入になると各自で判決ができませぬから、よんどころなく奉行へ持ち出すのであります。

(関内ならばいかがでありますか?)

関内ならば勘定奉行であります。

(郡代、代官は裁判をするのでありますか?)

左様、支配内なら裁判をいたします。領分外にわたれば奉行へ廻すのです。

(然らば三奉行各々の受持に判然たる区別がありましたか?)

寺社奉行は関外の訴訟と、全ての寺社の訴訟。町奉行は町方のすべて、勘定奉行は関内、すなわち関八州の訴訟を受持ちます。

(土地の区別はそうでありましょうが、事柄の区別はいかがでありますか?)

事柄には関係せぬようであります。

それでは刑事、民事を問わず、関外なれば寺社奉行、関内なれば勘定奉行となっていたのでありますか?)

左様であります。

(立会に他の奉行は出て来ますか?)

それは出てきませぬ。寺社奉行なり勘定奉行なりの役宅でいたしますので、その奉行一人であります。評定所は月に六度きりの開廷ですから、他の日に出るということは出来ませぬ。すなわち、最初の吟味を評定所でやって、その後は役宅で吟味をつづけ、判決の時には、また評定所へ持ち出して申渡しをするのであります。

(その時は評議に掛けてやるのではありませぬか?)

左様、評定所の一坐掛りのことであります。

(評定所にて最初吟味したものを奉行の宅へ持って来るのは、何の奉行の所へ持って来るのですか?)

それには首判(しゅはん)ということがあります。たとえば寺社奉行の掛りですと、寺社奉行が首判をして、それから町奉行、勘定奉行が判を捺しますから、その首判の所へ持って行くのであります。

(百箇条は人情と道徳とを基として拵えてありますが、お捌きの時はいつもその心得でありますか?)

左様であります。あれも容易に出来たものではなく、種々議論を立てて遂にあの通りのものになったので、ずいぶん人情を尽くしている積りであります。

(あれは八代将軍の時に全備したものでありますナ)

左様であります。完備した刑法は、あれまでは無かったのであります。

直訴の取扱い

(御直訴(ごじきそ)ということがありましたか?)

それは越訴(えっそ)であります。すべて訴訟は地頭へ願って、相当の手続きを踏まなければならぬのです。まず出入をしようとするには、その地頭へ願って出て、何々に対して斯くかくの願いの筋があることを言い、地頭からそれに相違ないという添書を貰ってから、奉行所へ願って出るのであります。奉行所ではその添書がなければ受付けませぬ。ところがそれにはなかなか時日がかかる、地頭も容易に添書を出してくれぬので、待ち兼ねた訴人は、添書なしに直接奉行に訴える。それが越訴、差越し願いで、もちろん不法行為であります。しかし、事柄によっては取上げられることもありましたが、殆どは廃棄されました。

(その越訴は余程あったものですか?)

左様、毎日二、三人はありましたな。

(僧侶に係った訴訟は寺社奉行でありましょうが、それは僧侶が原告たると被告たるとを問いませぬか?)

その差別はあります。町人が原告なれば町奉行、僧侶が原告なれば寺社奉行、その原告の支配によるのであります。

(江戸の内なれば町人はすべて町奉行に属するでのありますか?)

左様であります。

(門前町にある町人と坊主との関係も同一でありましたか?)

同一でありました。

御目付の任務

(御目付をお勤め中、どこか大名が城を明け渡すについて、それを受取りに御出張になったことはありませぬか?)

左様、しかしそれには受取りの大名が出来ておりますのでな。浅野内匠頭が赤穂五万石の城を明け渡す時は、近所の大名、たしか竜野の脇坂が城受取りの正使を仰せ付けられたのであります。もちろん目付も出張りますが、これはすべての監察に当たるので、なかなか重大な役目でありました。

(目付は一切の監察をするのであると言いますと、随って人に忌み嫌わるるというようなことはありませぬか?)

左様、それはありますな。ざん訴ではありませぬが、こういうことを承わりますと、風聞書というものにしてお上に差上げますので、それが目付の役目なのですが、どうしても嫌われますナ。

(目付は多くは殿様旗本がなっていたのではありませぬか?)

目付は五百石以上の旗本を以て勤めさせたので、すべてで十人おりました。いずれも愚かではありませぬが、どうも殿様育ちが多かったので、軽輩からも抜擢いたしました。私共も目付を勤むべき家筋ではありませぬが、どうも世の中がむつかしくなってきて、おぼうさんばかりでは勤まらなくなったのであります。

(目付十人のうち成り上がりの人は何人と、その人数は極まっていましたか?)

それは極まってはおりませぬが、たいがい三人程ずつはまじっておりました。しかし十人と極まっている人数のものですから、容易に軽輩には申付けなかったのであります。つまり人の善悪を申す役でありますから、その人選は頗る厳格でありました。

(いつごろからそうなりましたか?)

まず天保あたりであります。

(目付の下にはどういう役がありますか?)

御徒士目付、御小人(おこびと)目付のようなものであります。ほかにも目付支配は沢山ありました。

(その御徒士目付、御小人目付などが、実際の目付をいたすのでありますか?)

まず左様であります。いかなることの探偵をいたさせますにも、徒士目付に申付けます。職掌上、政府部内のことは勿論でありますが、民間のことでも何でも心付きたることはすべて申して呉れたものであります。

(日本全国のことは何でも目を付けるというのでありますか?)

左様であります。

(目付は実際に役に立ちましたか?)

よほど役に立ちましたナ。将軍の目の代わりでありますから、どうも人が少ないので、かの御進発の時などは、十人を増加いたして二十人となりましたから、更に多く軽輩もまじったのであります。

(目付の中に勝手掛りというのがありましたか?)

勝手掛りは将軍家の年中の支払いを改める役でありました。

(幕府の一切の入用を吟味するのでありますか?)

左様であります。すべて勝手の入用筋は、勘定奉行が相談をいたしますが、しかし一々は相談が出来ませぬから、大体のところを相談するのであります。

(勘定吟味役と同一でありますか?)

左様、吟味役は勘定所の内裏の吟味であります。勝手掛りの目付と申すのは内外であります。かの吟味役の如きはその以前はなかったのでありますが、目付が内外ともそうは目が届きませぬから、内裏の方へ勘定吟味役という役を設けたのであります。

(目付が何か気が附いたことがあって意見を持ち出す時は、誰の処へ持ち出しますか?)

目付は若年寄の支配でありますけれども、老中へ直接持ち出すのであります。事によると将軍家へ直(じき)に申上げることがありました。他の役人は、将軍家へは滅多に申上げることなどは出来ませぬが、目付には出来たのであります。

(御側の手を経ずしてでありますか?)

大概はまず御側が取次ぐのでありました。すなわち御用御取次がおりまして、将軍家へ申上げましたが、事柄によっては直に申上げたこともあります。

(御取次があっても通例はお直というのでありますか?)

まず左様であります。御側という者は大変に権力のあったもので、将軍家の仮声(こわいろ)を使うことがあります。

(芸術掛りというものがおりましたか?)

左様、やはり目付に限った仕事でありましたが、御右筆の方にもありました。学問の事、武芸の事、武芸の事の掛りで、芸術掛りと申しました。

(その他にも目付に掛りがありましたか?)

左様、目付の方には勝手掛り、町方掛り、芸術掛りで、各々一人ずつでありました。一番古顔の人を選んで勝手掛りとしました。(補訂)このほか、供連掛り、呉服掛り、後には海防掛り、外国掛り、最も人選なりし)

奈良奉行時代の話

(奈良奉行をお勤めのうちに、春日神社とか興福寺とかと、何か関係はありませんでしたか?)

別に関係というほどでもありませぬが、春日の大祭はなかなか賑やかなもので、大和国中の大名から、名前を附けた槍を出します。藤堂などは五十本、百本の槍を出しますし、郡山なら郡山十五万石の高に応じて、二十本、三十本の槍を出しますし、またそれに附添って来る役人もおりました。奉行もやはり槍を出す習慣で大勢ありました。もちろん平常は大和国中の吟味をいたすのであります。たとえば郡山領のだけのことなら構いませぬが、藤堂領に係った訴えとか、代官領に係った事になりますと、奈良奉行へ持って来なければなりませぬ。支配がそうなっておりますから。

(奈良は寺社の大きいのがあると聞きましたが。)

左様、興福寺などもなかなか大伽藍でありますナ。門跡がおりましたが、摂家門跡でありました。

(奈良奉行は役得がありましたか?)

ただ役料のほかに、年始、八朔(はっさく)というものを取りました。これは早く言えば礼を受けるので、寺社の住持、神主、町役人などから、土地に有合わせの物を少しばかり持って参ります。一年に二度ずつの献上物で、これは奈良奉行に限らず、京、大坂、堺、新潟、長崎の諸奉行に皆あることで、普通のことであります。

(その時は自身に出て礼をするのですか?)

左様、上下で出て、礼をいたすのであります。

(いかなる物を持ってきますか?)

多くは奈良晒(さらし)一反とか、人形とか、饂飩、芋、奈良漬とかいうものです。

(何か金目の物は持って来ませぬか?)

青緡(あおざし)一貫文というものを持って来ました。それを持って来てお辞儀をして帰ります。この青緡のことは幕府にもありました。

(奈良奉行では余り金になりませぬか?)

左様、只今申す通り年始と八朔に布一反とか青緡一貫文が極(ごく)でありますから、どうにもなりませぬ。京や大阪は割がよかったということであります。

(その二度の献上物は定式(じょうしき)でありましたか?)

左様であります。役柄と申すか家格と申すか、とにかく決まったものでありました。

(春日祭の時は、奉行はただ警衛くらいのものでしたか?)

左様なものであります。

(春日の鹿はたくさんおりますか?)

左様。もっとも、石子詰(いしこづめ)というようなことは嘘説であります。

(しかし、殺すとやかましかったのでありましょう?)

鹿は春日の使わしめと称えておりましたが、門跡でやかましく申すのであります。親王門跡も興福寺へは度々参られます。とにかく鹿を殺すと大変で、そのため春日の早起きということがあります。家の前に鹿が死んでいたりなどすると迷惑ですから、そういうことのないうちに早く起きるのであります。

(それを春日の宮司がやかましく言わずに、なぜ門跡がやかましく言うのでありますか?)

鹿は門跡の所有になっていたのであります。

(春日の宮は神仏混淆でありますか?)

左様であります。

(奉行と興福寺の坊主などとの関係はいかがでありましたか?)

興福寺の別当などは親属でありましたが、格は先方が上でありますから、奉行も圧するわけには行きませぬ。交際はなるべく親密にしておるのであります。

(薪の能というものがありましたか?)

あれは二月であります。芝原で舞うのであります。

(それは盛んなものでありましたか?)

左様、奈良在住の能役者もおりましたから。

(奈良奉行でありますと、奈良の寺社方をも取り治めるのでありましょうが、むつかしいことになりますと、やはり寺社奉行に持ち出すのでありますか?)

左様、所司代の吟味でも門跡のことになると、一応申上げなければならぬので、あれは自由にならぬのであります。

寺社奉行

(寺社取次という役人がおりましたか?)

取次は寺社奉行の家来でありましたが、やはり公用人でありました。

(その取次と留役とは、どういう相違がありましたか?)

左様、留役は吟味の方をいたしますので、取次は取次の役でありました。

(然らば寺社奉行と留役との間を取次ぐのが、取次役でありましたか?)

左様であります。留役の吟味いたす時に、取次御用人というのが其処に出ていて、吟味の次第を聞いておりました。早く申せば立会いのようなものであります。

(つまり奉行の介添の如きものでありましたか?)

左様であります。寺社奉行に限らず、勘定奉行の用人というのも出たのであります。

(評定所へ出たのでありますか?)

評定所へは出ませぬ。宅吟味の時であります。

(寺社奉行の方に大検視、小検視とか申す者がありますが、彼らは当時の巡査のようなものでありますか?)

あれは取次御用人とは全く別でありますが、検視には用人くらいの者が出ます。勧進相撲などにも検視というものが行っておりました。相撲の時には寺社奉行の方で桟敷を一と間取りまして、検視が坐っておりました。或いは寺社の境内で変死人があったというような時は、検視が参るのでありましたが、寺社奉行の検視はなかなか立派でありました。いずれも用人か用人並で、それを大検視、小検視と称えるのあります。大検視は馬に乗って、同心を十人くらい引き連れて出ました。

(その同心は直参の同心でありましたか?)

左様ではありませぬ。寺社奉行の家来でありまして、みな陣笠を冠っておりました。

(寺社奉行の検視は、江戸市中でも検視に出ましたか?)

市中でも寺社領の者が加わっている時は、立会検視であります。

(町奉行の与力という者は直参でありますか?)

左様、直参ではありますが、やはり検視に立会うのであります。すべて受持の者が加わっておれば、各々立会うのであります。

(ちょっと考えますと、相撲などは町奉行でよさそうでありますが、却って寺社奉行の方から出るのでありますか?)

左様、相撲は寺社奉行の支配になっておりました。大概は寺社の境内などで興行いたしたためでしょう。

(芝居などはいかがでありましたか?)

昔より芝居や浄瑠璃等は、町奉行の支配でありました。

(芝居へ来ている役人がありましたが、あれは町奉行の方でありましたか?)

左様、町奉行の与力とか同心でありました。あの時分は役者は乞食の取扱いでありまして、天保年度に猿若町(まち)へ逐い退けられたのであります。とにかくその時分は、役者は編笠を冠らねば往来出来なかったのでありますから。

(寺社奉行は寺社奏者を兼ねておりましたが、あれはいかなる所以(ゆえん)でありましたか?)

いかなる所以でありますか兼ねておりましたナ。諸大名からの献上物なども奏する者は寺社奉行でありましたが、寺社奉行ばかりでなく、奏者番と申す者がおりました。左様、十人程もおりましたか。

(補訂)御奏者番は御譜代大名の役付きの初発にして、多人数あり。そのうち人材を選んで寺社奉行とす。後に老中、若年寄等に任ずるの階梯なり。たとえば御役を勤むるの稽古なるが如し。

(寺社奉行の大検視というのは、坊主の不行跡にも目を付けるのでありますか?)

左様、僧徒のすべてを監察いたします。神主も同様であります。或る時に一夜のうちに坊主を五六十人捕えたことがあります。品川、板橋、新宿、千住等に網を張っておりまして、頭の丸い者を捕えましたら、その中に医者や御坊主もまじっておりましたが、殆んどは僧侶でありました。僧侶が女犯(にょぼん)の罪を犯すと、日本橋へ晒したものでありまして、一度に三、四十人も並んだことがありました。

(彼らが坐る所は白洲になっておりましたか?)

左様、筵の上に坐っているので、幾側にも並んでおりました。

(日本橋に高札が出ておりましたが、あれは奉行で出すのでありますか?)

左様、何々を訴人にすると御褒美を下さるというような高札もありました。

(あれは奉行が勝手に出すのでありますか?)

イヤ、やはり幕府から出るのであります。

(それから虚無僧というものも、寺社奉行の支配でありましたか?)

左様であります。例も仙石騒動なども、虚無僧になっていた者を町奉行の手の者が捕まえたことから、面倒なことになりました。虚無僧は無暗に捕まえることは出来ぬのでありました。

(重野)あれは徳川の政策の妙なる所で、一つには虚無僧寺に犯罪者を集める手段ともなり、また一つには隠密にもなったということであります。

(成程、深い見込みのあったことと思います。とにかく権柄(けんぺい)なものでありました。あれが盛んになってから、河合又五郎の一件のように、幕臣と大名と喧嘩するようなことはなくなったのであります。

その他関係者等

公事師

(徳川の時分の訴訟事については、口書などを書いてやる者がおりましたか?即ち今日の代言人のような者はおりましたか?)

左様、彼らは多く宿屋でありました。たとえば上野の埼玉屋などがそれで、そこの手代などが書いてやったものでして、代言人の如き資格のある者ではありませぬ。

(それでは相談相手でありますナ。その中には公事に明るい者もおりましたろうな。)

左様、公事師と言っておりました。すなわち、それらが書付一本幾許(いくら)と極めて、渡世にしておったのであります。

(公事師と公事買いというものがおりましたか?)

左様、おりました。公正の者ではありませぬが、その公事を幾許で売ってくれろと言って、実際千金の訴訟を三百両位で買って、うまく公事に買って取ってしまうというのであります。これは官に知られるとなかなかやかましいもので、勿論、罪になります。これから見ると当今の代言人は立派なものでありますナ。

代官

(代官の方はいかがでありましたか?)

代官、郡代は地方へ行っておりまして、年貢、金穀を取立て、その領地の裁判などをいたしたもので、なかなか権力がありました。

(賄賂の方はいかがでありましたか?)

賄賂はありませぬが、代官、郡代は幕府から貰うものが多い上に、一種の請負いでありますから、やり方によっては随分の余剰となり、それで自然と溜まるのであります。

乞食

(乞食の頭に松右衛門というのがおりましたナ)

左様、たしか江戸の東半分が善七、西半分が松右衛門の支配でありました。また水戸と鎌倉に格別な尼寺がありました。いわゆる縁切寺で、女房が離縁を求めても亭主が承知いたさぬ場合、女房がその尼寺へ駆け込み、寺法を守って三年過ごすと、公然と離縁が認められるのでありました。酷なようでありますが、そのため助かった女も大勢いました。水戸の西山公の息女もその寺にはいっておられたそうであります。

【参考文献】
国立国会図書館デジタルコレクション
青蛙房)