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徳川家基の死因~ペルシャ馬からの落馬~オランダ商館長の記録

 徳川十代将軍家治の世子・徳川家基は、安永8年(1779)2月21日、鷹狩りの帰りに立ち寄った品川の東海寺で休息中に突然体の不調を訴え、江戸城に急ぎ運ばれるも、3日後の2月24日に江戸城で18歳の若さで死去したとされています。

 ただ、日頃から度々鷹狩りに行き、壮健であった家基の突然の死については、失脚をおそれた田沼意次による毒殺や、家基の死により十一代将軍となった家斉の父一橋治済(はるさだ)による毒殺など、諸説囁かれてきました。

 そのような中、今回は、長崎オランダ商館長の回想録に記された家基の別の死因について紹介します。

 ヘンドリック・ヅーフは、寛政11年(1799)にオランダ商館の書記として来日、その後享和3年(1803)から文化14年(1817)の間オランダ商館長を勤めています。

 家基が亡くなった20年後に着任しているのですが、ヅーフが日本の政治、文化等様々なことを記した「日本回想録」の中に、家基の死についても記されています。

 そこには、

日本では、古来の習慣によりて、官吏は高下を問わず世襲である。ただし、男子の何れを跡継にするかは父の意思による。
もし男子が無い時は、他家の子を養子とする。かかる養子はこれよりその生家の姓を離れて新父の姓を用いる。
また彼は、日常の応接においては実の両親を父母と呼ぶことができるが、正式の場合にはこれに父母の名称を用いることはできない。
さて、現将軍(十一代将軍家斉)の先代(十代将軍家治)は、その実子が暴れペルシャ馬(この馬は我らが彼に献上したものである)から墜落した結果、不幸にもその継承者を喪った。
他家の子即ち現将軍を養子となした。その実父は健在であったが、彼は将軍の職に就くや、直ちに公然と父君の称号を与え、頗る物議を醸した。
この時古参の老中は旧習に背くものとして之に反対した。

と、養子の風習の紹介の中で家基の死について触れています。

 また、1823年に来日したシーボルトもその著書「日本交通貿易史」の中で、

日本の皇帝(将軍)が、1765年(明和2年)にペルシャ馬を所望したため、オランダ人が献上し、その返礼として莫大な棒銅を受け取った。
その後、同様の馬一対を所望されて差し出したところ、将軍継嗣はその一頭に乗って落ち、その外傷のために死亡した。
将軍はその馬のせいでただ一人の息子を亡くしたのに、商館長たちは度々馬の返礼を求めていたため将軍の心証を害した。

といった内容を残しています。

 家基の本当の死因は分かりませんが、少なくともオランダ商館では、将軍に贈ったペルシャ馬から落馬したため亡くなったと認識していたのでしょう。

【参考文献】
国立国会図書館デジタルコレクション
ヅーフ日本回想録フイッセル参府紀行(斎藤阿具 訳註:奥川書房)
異国叢書 〔第8〕(駿南社)