江戸中期に書かれた逸話集『明良洪範』から、旗本の謎の死に関する話を紹介します。
被害に遭った稲葉伊勢守正吉は、春日局の夫であった稲葉正成(まさなり)の十男で、母は山内康豊(一豊の弟)の娘でした。
寛永5年に兄正次が亡くなった際、その子正能が幼少であったため、正吉もわずか11歳でしたが代わりに美濃国青野5千石を継ぎ寄合旗本となります。
その後慶安3年に御書院番頭となり、翌慶安4年には従五位下伊勢守に叙任されています。
伊勢守正吉の謎の最期
駿河城番を勤めていた明暦2年(1656)、7月3日の夜に正吉は突然変死します。
正吉の家老であった安藤甚五右衛門から届けられた内容は、
「主人伊勢守は自ら命を絶ちました。主人は元々心が弱く、寵愛していた御息女が病死された後、かなり気落ちされていてこのような次第になりました。
御息女を亡くされた悲しみのあまりに自ら命を絶ったのです。」
と報告がなされました。
大身の旗本の自死ということで、甥で小田原藩主であった稲葉美濃守正則が幕命に寄り詮議することとなります。
正則は正吉の家来たちを呼び寄せて調べを行いますが、本当に正吉が自ら命を絶ったのかなかなか判断が付きません。
詮議の期限が迫った日、一族が寄り合って評議していましたが、正吉妻の兄弟であった太田資次(後の浜松藩主)が、
「伊勢守殿の死骸を見分したとき、刀の柄を握ったままであったとのことですが、これは死後に刀を持たせたのではないでしょうか。また、安藤甚五右衛門が取り調べの際、しきりに伊勢守殿の乱心であると繰り返していたことも不審です。」
と意見すると、正則ももっともなことだと疑い、一同評議の上で安藤と懇意にしていた正吉小姓の松永喜内を捕え拷問にかけることにします。
早速拷問にかけられた松永でしたが、私は何も知りませんと言い張るばかりです。
そこで正則は、安藤の元へ家臣の黒田理右衛門を差し向けます。
安藤に対面した黒田はいきなり、
「伊勢守様を殺害したことが明らかになったので、正直に認められよ」
と詰め寄ります。安藤は、
「とんでもない。決してそのようなことは知らないので認められません」
と拒否します。
すると黒田は口調を和らげ、
「もちろん家老のあなたがそのようなことをするはずがないことは主人の美濃守共々分かっております。
ただ一つ計略に使うので一筆書いてもらいたいだけです。本当に潔白ならばそのくらいよいでしょう。
意地でも固辞するならば帰って美濃守様も怪しむでしょう。」
と伝えると、安藤は
「意地でも拒否するならば拷問にかけられるかもしれない」
と怖れ、殺害を認める旨一筆したためたのです。
黒田はそれを受け取ると退去し、今度はそれを捕えられている松永に見せます。
そして、「安藤も認めたのでそなたも罪を認めよ」と詰め寄ったのです。
すると松永はその紙をじっくりと見て、黒田の自筆であることを確認すると、歯を食いしばり目を血ばらせながら、
「何と口惜しいことだ。もうすべてお話しします。私と安藤は密通した間柄でしたが、そのことが主人伊勢守にも知られたようだったのです。
そこで安藤が『先手をうてば人を制し、うたれれば制される、主人を殺すしかない』と言い頼まれて殺しました。
このことはいかに責められようとも決して白状しないと互いに血を交わして誓ったのに白状するとは。あんな男と情を交わし誓い合ったとは無念だ。」
と語ったのです。
これによって、安藤、松永の両人は死罪、安藤の父及び兄も切腹となったほか、親族ことごとく連座で処罰を受けたのでした。(明良洪範)
ちなみに正吉の妻は太田資宗の娘で、子の正休は土屋数直の娘を娶り若年寄を勤めて1万2千石の大名にまでなりましたが、貞享元年に殿中で堀田正俊を暗殺し、その場で正休も討たれ家も断絶しています。
新着記事