慶長7年(1602)、常陸国は旧領主佐竹家が秋田へ転封となり、代わりに家康の五男万千代(武田信吉)が新領主として着任することとなっていました。
その間の領主不在の時期のことです。常陸国小生瀬村に2人の役人が年貢の取り立てにやってきました。
村の者たちは言われるがままに年貢を納めたのですが、数日後にまた2人の役人がやってきて年貢を納めろと指示をしてきたのです。
前に来た役人が偽物だったのか、領主交代の混乱期における手違いだったのかは分かりませんが、村人達は新領主が年貢を二重取りしようとしていると激怒しました。
そして、新たに来た2人の役人は村人たちに襲われ追い回され、1人は逃げ切りましたが、もう1人は袋叩きに遭って殺害された挙句、俵詰めにされて水戸城下へ送りつけられたのです。
新領主の家老芦沢伊賀守は激怒し軍勢を率いて村を襲撃します。
当時、村では秋祭りが行われていましたが、突如襲い掛かって老若男女問わず手当たり次第に殺害していったといわれます。
数百名いた村人は、村はずれの藁束の中に隠れ逃げ延びた数名を除き、ことごとく皆殺しにされました。
村人達が命乞いをした場所が嘆願沢、追い込まれて皆殺しにされたのが地獄沢、血の付いた刀を洗った場所を刃拭き沢、斬られた者の首を埋めたのが首塚、胴を埋めたのが胴塚などの名が残されているそうです。
当時の正式記録はなく、後世の伝承しかないため、誤解に基づく悲劇だったのか、新領主に不満をもつ村の蜂起だったのかは分かりません。
ただ、全国的に新たな支配地に入封した大名は在地勢力の支配に神経を尖らせ剛柔合わせた対応を取っており(山内一豊による一領具足虐殺など)、小生瀬村の事件も時代ゆえの悲劇だといえます。
ちなみに、新領主であった武田信吉は家康と武田家臣の娘の子で、穴山梅雪の子勝千代の死後甲斐武田家の名跡を継いでいましたが、この騒動の翌年に病死しており、芦沢伊賀守ら家臣団は後に頼房を祖とする水戸徳川家に仕えています。
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