我儘な御曹司忠輝
松平忠輝は徳川家康の六男であり、伊達政宗の娘(五郎八姫)を妻に迎え越後高田60万石の太守として権勢を振るいましたが、家康死後の元和2年(1616)、25歳の時に改易されています。
天正20年(1592)に忠輝が生まれた時には父家康は既に大大名であり、苦労することもなくわがまま放題に育ったようです。
忠輝も大名として次々に石高も加増されていきますが、あまりの粗暴な行状に忠輝の補佐として付けられていた家老たちが家康に訴えるも、子供には甘かったようで、逆に訴えた家老たちが改易や切腹させられるなどしています((+_+))
その後も行状は変わることなく最終的には家康も持て余すようになったようで、晩年は突き放す態度に。
大阪夏の陣では、近江国で忠輝の軍列に並んで郎党を引き連れ進んでいた2名の旗本を、無礼であるとして忠輝家臣が刺し殺します事件を起こしてしまいます。
後に秀忠から咎められると、忠輝はその家臣を殺した旗本の一族に引き渡して謝罪しようとしたため、驚いたその家臣が忠輝のもとから逐電し、忠輝を恨んで大坂の陣での怠慢ぶりを幕府に訴えたといいます。
そもそも忠輝は大和路軍の大将として参陣するも、他の大名が激戦を繰り広げる中戦いに遅れて全く功を挙げることができず、家康からも冷たくあしらわれたようです。
家康が死ぬと、父ほど甘くない兄秀忠は早速忠輝を改易します。(一応家康の遺命ということになっています)
なお、義父であった伊達政宗や付家老であった大久保長安と天下を手中に収めようと謀反を企むも大久保長安事件により断念したとの俗説もあります。
その後の忠輝~諏訪での生活
忠輝は最終的に諏訪家の高島城にお預けとなりますが、わがままな性格は改まらなかったようです。
しかし41歳の時、別に配流されていた息子が屋敷に火を放ち自殺してからは落ち着いたといわれています。
結局忠輝は高島城南の丸に幽閉されたまま、5代将軍綱吉の世の天和3年(1683)、92歳で死去するまで許されることはありませんでした。
諏訪高島城(復元)
なお、高島城南の丸は城内部と橋一本で繋がれただけで外部との接触は厳重に管理されていたとのことですが、自由に出歩くことが黙認されて外に妾を持ち、男子までもうけていたとの地元の伝承もあります。
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