出雲松江藩主松平家は徳川家康の次男結城秀康の子孫のうちの一家になり、茶人大名として知られる松平治郷(不昧公)が有名ですが、その父である松平宗衍(むねのぶ)の逸話について紹介します。
松江藩邸の入墨美人たち
宗衍は明和4年(1767)に次男の治郷に家督を譲り隠居し「南海」と称しましたが、かなりぶっ飛んだ隠居様でした。
侍女に一重の絽(薄く透き通った絹織物)を着させて側近くに仕えさせていましたが、その侍女たちを選ぶにあたっては容姿に優れた美人であるだけでなく、美しい肌の者にこだわったそうです。
さらに、なんと一番肌の美しい女中の背中一面に様々な入墨をさせ、薄い着物で透き通る様を眺め満足していたのです。
他藩にはあるはずもない、知る人ぞ知る入墨美女の絶景として南海の自慢であったといいます。
しかし美女といってもいつまでも若いわけではありませんので、南海は年を取った入墨美女を家臣と縁付けようとします。
美女なので引く手あまたであろうと考えていたようですが、家臣達は
「有り難きお話なれど謹んで御辞退申し上げます」
と誰も応じようとしません。南海の趣味嗜好と同じ家臣はいなかったようで、背中一面に入墨が入った女性をわざわざ妻にしようとする者はいなかったといいます。
さすがの南海も焦ってきます。自分の趣味で入墨を入れてしまったので遅ればせながら責任を感じてきたのでしょう。はじめから入墨を入れなければよかっただけのことですが・・・
困った南海は、入墨侍女に持参金千両を付け、相手も武士には限らないとします。が、今度は侍女が納得しません。誰でもいいから引き取ってくれなど不用品のような扱いに応じられるわけないですよね。当然ながらそれ相応の相手を求めます。
結局相手が見つからないまま時は過ぎ、江戸の松江藩邸には終身扶持を与えられた入墨侍女が残っていたそうです(´Д⊂ヽ
松江藩邸の化物の間!?
ついでにもう一つ南海の逸話を紹介します。南海が隠居前の当主であったころ、狩野派の絵師を使って江戸上屋敷の一室に天井から襖まで悉く妖怪変化を描かせて「化物の間」というのを造ったそうです。
そして夏の夜は避暑代わりに、若い侍女たちとともに蠟燭で照らされた化物を見ながらそこで過ごしたといわれています{{{(>_<)}}}
若い頃からぶっとんだ殿様だったようです┐(´д`)┌ヤレヤレ
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